小説 川崎サイト

 

エアーアパートと風邪


 柴田は相変わらずの暮らしをしているが、風邪を引いたようだ。
「一寸風邪なので、静かにしている」
 友人の笹原からの電話。
「じゃ、これから行く」
「だから、風邪を引いたので」
「気にしないから」
「こっちが気になる」
「急ぎの用なんだ」
「そうなのか」
「寝ているの?」
「いや、寝込むほどではないけど、今日は静かにしている」
「だったら、静かに聞けばいいから」
「そうなの」
「もう近くまで来ている」
「あ、そう」
「すぐにドアを叩くから」
「分かった。でも静かにしているからね」
「ああ、了解だ」
 しかし、いくら経っても笹原は来ない。近くまで来ていると言っていたが、何処から電話をしたのだろう。笹原の家は近い。そこから推定すれば、アパートの前あたりからではないかと思える。近くまで来すぎだ。まあ、いきなりドアを叩くよりも、先に声をかけたのだろう。
 だが、笹原は来ない。
 柴田は窓から下の道を見るが、一部しか見えない。身体を乗り出せば、もう少し見えるが、今日は静かにしたい。ドタバタしたり、身体を動かしたくない。それに妙な角度で身体を捻らないといけないので、筋を違えそうだ。
 柴田は電話をかけてみたが、通じない。電源を切っているのだろうか。しかし、電源を切らないといけないところは、この近くにはないはず。
 かなり待ったが来ない。
 その間、柴田は静かにしていたが、いつ来るか、いつ来るかと思うと、落ち着かない。
 それで、表に出て、様子を見ることにしたのだが、あまり意味はない。笹原が迷うはずがない。何度もこのアパートに来ているのだから。
 部屋を出ようとしたとき、電話が鳴った。
「取り潰されたんだね」
「何が」
「満月荘」
「あるよ。間違ったんだろ」
「そうかなあ。この近くにそんなアパート、君ところぐらいだよ。他にあるか」
「ない」
「ほら、やはりそうだ。更地になってる」
「その周囲に何がある」
「廃業した酒屋」
 合っている。
「僕は今、そのアパートにいるから」
「でも入口がないよ。エアーアパートだ。君の部屋は二階だろ。そもそも階段がない。そこはただの空気だ。君は空中にいることになるぜ」
「冗談を。まあ、待て。下に行くから、待ってて」
「OK」
 柴田はアパートの木の階段を降り、通りに出た。廃業した酒屋がある。酒屋は他にもあるが、廃業したまま看板だけ残っているのは、そこだけ。友人が来ると、よくこの酒屋でビールとかおつまみとかを買ったものだ。冷蔵庫代わりに使っていた。
 電話はまだ繋がっている。
「降りたよ。いないよ。いま酒屋の前だ。君は」
「同じ」
「僕の姿、見えないか」
「君の姿も見えない」
「あ、そう」
「どうなってるの」
「説明できない」
「どうする」
「僕は部屋に戻る。今日は静かにしてないと駄目なんだ。風邪なので」
「僕はどうすればいい」
「部屋で待ってるから」
「そのアパートがないんだよ」
「おかしいなあ」
「おかしいでしょ」
「じゃ、部屋に戻る」
「でも、目と鼻の先に、君、いるんじゃない。いま」
「え」
「だって、酒屋の前にいるんだろ」
「そうだけど」
 笹原は手を大きく動かし、柴田の身体に触れようとした。しかし、見えないのだから、何ともならないし、手に触れるものは空気だけ。
「今日は静かにしているから」と、柴田が言ったあと電話を切った。
 笹原は放置された。
 何があったのかは分からないが、今日は静にしていたいので、柴田は部屋に戻り、録画していたテレビドラマを見たり、音楽を聴いたりして過ごした。
 そのうち、笹原のことなど忘れてしまった。
 
   了



2020年9月25日

小説 川崎サイト