小説 川崎サイト

 

頭の中に宿るもの


 ある日それが頭の中に宿り、ずっと棲み着く。これはあることだ。しかし頭の中にそんな家や部屋があるわけではない。しかし空いている部屋があるのかもしれないし、部屋はいくらでも作れるのかもしれない。
 頭の中に入り込んだ寄生虫ではない。虫は具体的だ。そうではなく思いのようなものだろう。今まで思っていなかったことが増えた。そういうことだ。
 ただ、そういう思いもいつかは消えており、部屋は空。そこにまた何かが入り込む。棲み着いて、またしばらくは滞在する。
 住み着いたものを放置していると、そのうち変化を起こし、禍となるかもしれない。だから手当が必要。これは具体的な行動に出ることだ。頭の中に住み着いたものには具体性がない。ただの思いなのだから。
 住み着いたものと直接関係のある行動を具体的に取るのもいいが、それができない場合、間接的にやっつけるしかない。これは何か悪いものを退治するような感じだが。
 当然、それは非常にいい思いの場合でも、それが禍の種になったりする。
 思いというのはそのうち忘れたりする。別の思いにとって変わられたりする。より強い目の思いの方に気が行くためだろう。または思うことに飽き、もう力がなくなっていることもある。
 当然、ある時期を過ぎればいつの間にか時と共に流れ去ることもある。季節が変わると枯れる花のように。この場合、何もしなくてもいい。
 頭の中に何かが宿るのは、それだけの理由がある。それまでの状態や状況で宿らせてしまうのだ。虫が湧く場合、湧くだけの理由がある。虫が好きなものがあるのだろう。または虫にとって都合のいいものが。
 また現状を打開するため、何かが宿ったりする。これが突破口になるかもしれない。逆に現状維持を望んでいるのに、それを壊すようなものが入り込んでいることもある。
 ただ、本当に現状維持を望んでいるわけではなく、不満もあるはず。その不満が何かを宿らせる。これは悪いものだろうが、使いようだ。
 人は頭の中ではまったく正反対のことを同時に思っているもの。本当はどちらへも転べるのだが、それは頭の中だけの話。実際はそんなことはしないし、またできなかったりする。
 頭の中に宿ったもの。これは妄想かもしれない。亡き女への想いと書く。凄い言葉だ。では女性の場合はどうなるのか。しかし、これは本当の女のことではない。女性の中に眠る男性。男性の中に眠る女性。眠っていない人もいるが。
 想いというのも、木の目の心だ。木は年輪を重ねる。確かに年輪ごとに記憶があるだろう。木の目は手相のようなもの。人相もそうだ。その心とは、となる。
 人は単に思っているのではなく、具体的なものが背後にある。それが妄想でも空想でも、何らかの塊があるはず。
 頭の中に宿るもの。人はこれと一生付き合うことになる。
 
   了

 



2020年9月27日

小説 川崎サイト