小説 川崎サイト

 

頭の散歩


 芝垣は高み、尖ったところ、最先端を狙っていたが、それにも飽きてきた。それで低いところまで降りた。見晴らしは高みに比べ、それほどないので低みとは言わないが、結構いい場所だ。最先端からは外れているが、それだけに落ち着く。既に終わっている場所もある。それ以上何ともならないままとどのつまりをやっている。これはこれで落ち着ける。そこからは高みへは出られない枝なので。
 最初の頃は既成のもの、古いものと思い、さっと通過するか、無視するか、スルーしていたのだが、上から降りてくると、満更悪くはない。何かいい感じだ。昔はそこが最先端で新しかったのだろう。今はその強度が落ち、よくあるものとして残っているだけ。
 それがその後、どうなったのかは歴史を見れば分かる。ただ、その歴史は今の時点での判断で、その後、変わるかもしれない。古臭いものが復活し、最先端になる可能性もある。
 古さではなく、もう使われなくなったものもある。流行らないためだろう。今と合わないので。だからそのものが悪いのではない。
 芝垣はそういうものに興味を持ちだした。これは趣向を変えたり、目先を変えるだけのことなのだが、その余裕ができたのは、高みから降りてきたため。その第一印象は最先端に比べ、楽。安らぎさえ覚える。
 最先端を目指さなければ、こんなに豊かな世界が拡がっている。しかし、今の時代でもまだ通用するが、使い古されたもので、飽きられたのだろう。しかし当時はもてはやされていたに違いない。
 芝垣は目新しさを求めていたのだが、目古さに目覚めた。それで眼まで古くなり、古目になったわけではない。だが、古目とは何だろう。
 古いもの、もう終わったものはいくらでも転がっている。それらを組み立て直せば、新しいものができるのではないかというような発想ではない。それなら先端を目指すことになる。芝垣は新しいものに飽きたので、降りてきたのだから。
 そして、色々なものを見るようになった。先端へ行くための参考にならないものは無視していたが、その目的がなくなったので、いくらでも寄り道ができる。
 昔はこんなことがあった、あったという話がいくらでもある。あるにはあるが昔話。お伽噺のように聞こえるほど古い話で、今とは繋がっているが、遠すぎて、先祖だとは思えない距離。
 そして、そういうことを考えていると、これは一種の散歩ではないか。足で歩かないが。
 芝垣はそれを頭の散歩と名付けた。
 
   了
  
 


2020年10月22日

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