忘れがたき思い
「寒くなってきましたなあ」
「秋も深まり冬へと至る」
「至りますか」
「至ります」
「そういう話、去年もやってましたねえ」
「忘れました」
「あ、そう」
「風がきついので寒い」
「忘れないようようなこと、ありますか」
「よく忘れます」
「いえ、そうじゃなく、晩秋の日の忘れることのないような思い出とか」
「少し待って下さい」
「忘れましたか」
「あるにはあるが、忘れるようなことがないような思い出ではないようです」
「思い出したのを、言って下さい」
「そんなの聞きたいですか」
「はい」
「一人で淋しく紅葉狩りへ行き、高い湯豆腐を食べた。私は忘れない。あの高さを」
「もういいです」
「食い物の恨みは百年残る」
「そうですか」
「家で作れば百円かからん」
「観光地でしょ」
「そうだ」
「飲み屋の湯豆腐なんて安いですよ」
「それじゃ風情がない」
「じゃ、いい場所で、いい雰囲気の店で食べたのですね」
「まあ、そうだが」
「ああいうのは接待とがいいですよ。個人的に自腹を切って食べるようなものじゃありません。切腹じゃないですけど」
「冷えてきたので、温かい湯豆腐が食べたくなったんだ。それで湯豆腐と書かれた看板が表に出ていたので、その通りを進んだ。細い道だ。奥に家がある。そこまで入り込んだので、引き返すのも何だし、まだそのときはそんなに高い湯豆腐だと思っていなかった。簡単な板に貼り付けた湯豆腐と書かれた文字だけの看板。後で考えると、貼り紙だ。ただ、暗くなってからでも見えるようにLEDランプが仕込まれていた。あれは電池式なので、交換が大変だろう」
「もういいです」
「君はあるか? 忘れがたきこと、この晩秋」
「秋刀魚を全部食べる人がいましてねえ」
「骨もかね。猫だろ」
「人です」
「しかし骨は残すだろ」
「確かに残しましたが、本当に骨だけ」
「じゃ、全部食べたわけじゃない」
「普通、そこまで食べませんよ。綺麗に」
「たまに、そういう人もいるんだ」
「その、たまの人だったようです」
「何処で」
「飲み屋です」
「あ、そう」
「しかし、晩春の忘れがたき思い出を聞きたかったのですがね。もう少し、それらしい」
「私は忘れないと、遠い目をして話すような内容かね」
「そうです。できれば湯豆腐やサンマじゃなく、少しもの悲しいような」
「あっても君には話さないよ」
「そうですねえ。私も同感です。魚にされたくない」
「そういうことだ」
了
2020年11月3日