小説 川崎サイト

 

古き流儀


 古きに戻るといってもそれほど昔ではない。ついこの前のことで、よく見えており、思い出すまでもないこと。まだまだよく覚えているので、昨日のことのように思われる。おとといのことになると少し曖昧になり、一週間前だと、かなり薄くなり、一月前だと距離感が出る。去年のことになると、もう繋がっていないような過去にも見えてしまう。
 古いといっても色々ある。新製品が出ると、旧製品になるが、今も使っている人がいるだろう。だからその程度の近さだと古いとは言えないが、言っても別にかまわない。新製品もすぐに旧製品になるので、新製品の旬は短い。様々な旧製品の方が数多くあり、そちらの方が豊富。
 その旧製品も、年月と共に、さらに旧旧製品となり、旧が増える。そしてもう忘れられたように、その存在は遠のく。
 これが商品ではなく、以前交わした約束とかならまだまだ生きているが、それが成立しないような状況になれば、自然消滅する。たとえば昔、そんな約束をしていたという程度で、今となっては約束の果たしようがなかったりする場合。
 お互いにそれが分かっているので、約束を実行する気は双方ともない。無理なので。
 山岸はそんなことを考えながら、自分の流儀について考えてみた。その流儀、かなり変化している。それで以前、これこそ古き流儀に成り果てているが、まだまだ使える流儀。これぞ山岸らしき流儀であり、やっと見付けた流儀なのだが、いつの間にか何処かへいってしまった。考えが変わったのだろう。流儀をそう易々と変える方がおかしいが、山岸の流儀とはそんなものだと自身思っている。流儀に拘らない流儀だろうか。
 それで、机の引き出しの底を掘り起こした。
 この引き出し、一杯一杯で、地層のように上から順に新しい。過去が積み重なっている。
 以前の流儀に目がいったのは、今の流儀に行き詰まったため。以前の流儀なら難なくできた。だからその箇所だけ、以前の流儀でワンポイントだけやればいいのだが、流儀とはそんなものではない。それなら流儀にならない。全部を同じやり方でやるからこそ流儀。
 個人の流儀、これは何とでもなる。本人が決め、本人がやるだけ。当然誰かのコピーが多いのだが、自分のものにしてしまえば自分の流儀になる。
 流儀とはただの目安だろう。そして慣れが加われば自分のものになる。そうすると、もうあまり考えなくてもできる。型ができ、その型通りやればいいだけで、あとは迷う必要はない。型に沿ってやればいいので。
 ただ、たまに型を変えてみたくなる。決して型破りに走るわけではなく、別の型に乗り換えるだけ。
 山岸は古き型、つまり流儀を引っ張り出してきたのだが、固定するとほぐしたくなるのだろう。
 
   了


 


2020年11月22日

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