小説 川崎サイト

 

書を捨て喫茶店を出よ


「喫茶店に入ってましてねえ。何か落ち着かない。買い物のついでに入ったのですが、先にトイレに行くべきだった。それを忘れていた。それでコーヒーを飲んでいる最中もよおしてきましてねえ。ところが、この喫茶店、トイレがない。聞くと一度廊下に出て非常階段のある通路の端にあるとかでした」
「それで」
「トイレはすぐに見付かりました。矢印もしてありましたのでね。狭い通路ですし、複数のドアがありますが、店舗ではありません。用具入れとか、倉庫のようなものだと思われます」
「それでトイレは」
「はい、すぐに見付かったので問題はありません」
「それだけの話ですか」
「ところが喫茶店に戻ろうとしたのですが、ない」
「え、何がないのですか」
「喫茶店が」
「それはないでしょ」
「だから、ないのです」
「そうじゃなく、場所を間違えたんじゃありませんか」
「初めての場所ので、そうかもしれませんが、そこまで間違うでしょうか」
「あなた、いま、ここでそのことを話されていますよね」
「はい、話しています」
「じゃ、無事戻って来られた」
「そういう問題じゃなく、喫茶店がないのです。鞄はトイレに立つとき持って出ましたので問題はありませんが、たばことか本とかはそのままなんです。まあ、なくなっても問題はありませんが、喫茶店が消えてなくなるのは問題でしょ」
「逆方向へ行かれたとか」
「いいえ」
「それでどうなりました。結局は見付かったのでしょ。喫茶店に戻れたのでしょ」
「かなり探しました。トイレは狭い通路にあります。その先は非常階段の入口、真っ直ぐ行くと衣料品などが売れられているフロア。そちらから来た覚えはありません。長い通路を歩いてトイレに入りましたからね。だから、もと来た通路を戻りました。合っているはずです。見覚えのあるドアもありました。そして、そこを抜けると広い廊下に出て、テナントが色々あります。喫茶店はその右側にあるはずです。それが、ない」
「よく調べましたか」
「はい、左側も見ました。しかし、喫茶店はない」
「不思議ですねえ」
「そうでしょ。だから喫茶店で休憩中、トイレに行って戻って来たという単純な話なら、わざわざ言いませんよ」
「それで、どうなりました」
「商業施設の案内板を見ました。地図が出ています。喫茶店などありません」
「ほう」
「私はどこに入っていたのでしょうね」
「そのあとどうされました」
「帰りました」
「帰り道はどうでした」
「普通です」
「家に帰られたのですね」
「そうです。我が家です」
「家の中の様子は」
「変わりません」
「錯覚でしょ」
「でも本やたばこ、そして小物入れも置いたままです。だからありません」
「本のタイトルは」
「書を捨て街に出よ。です。古書店で買いました」
「考えられるのは」
「何かありますか。この不思議に関する手掛かりを」
「あなた、どうやってその喫茶店に入れたのでしょうねえ」
「普通の喫茶店ですよ。硝子張りで、中はよく見えるし、怪しい店ではありません」
「存在しない喫茶店に入ったことになりますよ」
「そうですねえ」
「よく出て来られた」
「トイレに行くため、出ただけです」
「まあ、そういうことです」
「謎は謎のままですか」
「まあ、本をなくしただけなので、幸いですよ」
「たばこと、それを入れる小物入れもです」
「あ、はい」
 
   了



  


2021年2月6日

小説 川崎サイト