小説 川崎サイト

 

火右衛門


 どんなときでも火右衛門と呟くと、ぞっとする。身震いする。合田はそれを知っているので、火右衛門のことは絶対に思わないことにし、封印している。しかし、何かの拍子で、ふっと火右衛門が出てくる。縁起の悪い名だ。
 合田の家に伝わっている言葉で、そういう人物が先祖にいたようだが、触れてはいけない人らしい。
 しかし、合田は子供の頃、何度か聞いたことがある。家族の誰かが口にしてしまったのだろう。
 合田は、火右衛門って何、と聞くと、怖い顔をされた。
 だから火右衛門も怖い存在なのだと子供の頃感じた。
 いいとき、いい場所、楽しいときや、歓談しているときや、大きな祝い事で喜んでいるときなど、すっと火右衛門が頭がよぎる。頭からヒエモンという言葉聞こえるのだ。
 その度に合田は血が引いたようになる。笑顔が消え、すっと表情が落ちる。
 合田の先祖に、合田家のため、何か罪を背負って自害した人がいたようだ。合田家が生き残ったのは、その見返りだったらしい。
 これは合田家の人だけにしか通じない忌み事で、ヒエモンのことは口にしてはいけないとされている。
 合田右衛門という人で、火右衛門ではない。だが、呼ぶときは火右衛門になる。
 今でも合田は火右衛門と呟いただけでもぞっとするらしい。何か忌まわしいものが覆うように。
 逆に、調子の良いときなど、敢えて火右衛門と唱えることがある。これですっと躁状態から落ちるので、いいブレーキだ。浮かれすぎたときの特効薬のようなもの。
 忌まわしい言葉だが、戒めなのだ。
 子供の頃、駄々をこねて無理泣きなどをしていると、火右衛門が来るぞ、と脅されたものだ。それで泣き止んだ。火右衛門の名を口にしたときの親の顔がもの凄く怖かったためだろう。
 また、火右衛門は急に出てくることもある。もの凄く水を刺さる感じで、どうして今なのかが分からないときに出てくる。
 しかし、この火右衛門、合田家を守るために自害した人なので、祟り神ではなく、本当は守り神なのだ。本人はいやだっただろうが。
 火右衛門の墓は郷里にある。合田家の墓とは別に。そしてそれを超える大きな墓は郷里の墓地にはない。
 
   了


 


2021年3月27日

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