小説 川崎サイト

 

まずまずの人


 調子の良いときと悪いときがある。その中間は「まずまず」で、特に良いわけではないが、特に悪いわけでもない状態。
 まずまずのときは標準的で、調子について考えていない。しかし、まずまずは調子のいい方だろう。
「まあまあ」は、それよりも下るが、まだ調子が悪いとまではいかない。
 この間の言葉が多い。それぞれ調子の様子に合った言い方があるのだろう。
 作田はまずまずが好きだが、良すぎるよりも、悪すぎるよりも安定感があるためだろうか。刺激は少ないが平和なもの。決して悪い状態ではない。それだけでも十分だったりする。
 作田は欲張らない。欲を出すとろくなことにはならない。これは経験により知る。だから「まあまあ」とか「ほどほどに」とかが多い。
 調子が良すぎると疲れるし、同じように調子が悪いと疲れる。
 大人しい作田だが、子供の頃は「調子乗り」だった。すぐに調子に乗り、やり過ぎることがある。それでよく叱られたり、また暴走して、痛い目に遭った。
 それから作田は調子に乗ることを封印した。乗りすぎるとろくなことにならないのを子供の頃に得たのだろう。早いのか遅いのかは分からない。
 その後、作田は調子に乗りすぎることを封印し続けたのだが、それは消えてなくなったわけではない。我慢しているだけ。
 さらに年を得ると、封印を切って、調子に乗りたいと思うときがあっても、面倒になった。いつの間にかいつものまずまずの調子に慣れたのだろう。それらは作田から発することで、何らかの事情で調子が良いときもある。それ以上テンションが上がりそうならブレーキを掛けた。調子に乗りすぎると疲れるためだろう。
 ブレーキが必要なほど、もっと羽目を外せる。それはもっともっと本当はいけるのだ。
 雀百まで踊りたいもの。当然忘れていない。
「面白味のない男だね、あの作田君は」
「地味ですねえ」
 そういう評判が定着してからは、羽目を外すわけにはいかなくなり、また、ここは調子に乗ってもっとやってやれ、というのもできなくなった。
「何が楽しくて生きているんだろうねえ」
「地味なことが好きなんでしょ。だから地味なことが楽しいんじゃないのですか」
 とも言われている。
 作田は、エネルギーを蓄えている。というより、溜め込んでいる。
 この作田が、調子に乗ってとんでもない暴走に出た場合、あの大人しい人がねえ、となるのだろう。
 
   了



2021年4月18日

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