小説 川崎サイト

 

惜春


「春が行きますねえ」
「まだ中頃でしょ」
「もう春の初々しさがなくなりました。夏が入ってきています」
「人生の春は短い」
「はい」
「それをまだ春なのに、今から惜しんでどうする」
「春も下り坂。それを感じただけで、もう春は終わりです」
「まだ残っておる」
「春は過ぎ梅雨へと至る。今日の雨などその前兆」
「これは春の雨。まだ梅雨の雨ではない」
「しかし、下り坂。春が遠ざかる」
「で、あなたには春があったのですかな、そんなに惜しむような」
「さあ」
「どちらです」
「なかったかも」
「では、惜しむ必要もないし、下りもないでしょ」
「そうですなあ。しかし、気だけは春でした」
「それは安くつく。誰でも得られる春」
「虚の春でも春は春」
「まあ、本当の人生の春も虚のようなものかもしれませんなあ」
「私には人生の春などあったかなかったか、今ではもう覚えておりません。もしかすると、これから訪れるのかもしれませんが」
「じゃ、取って置いたのですな。春を」
「得られなかっただけです」
「得た春も、虚の春も、似たようなもの。過ぎ去れば虚か実かが分からぬほど。その先に訪ね来る春があるとしても、それもまた夢のようなもの、一夜の夢かもしれませんよ」
「人生の春を想像するのはどうでしょうか」
「それは最初から想像なので、夢幻」
「虚ですか」
「そう」
「では、真実はどのあたりにあるのでしょう」
「そういうことが真実じゃな」
「実体ではなく」
「得た春も、得た瞬間から手の平、指の間からこぼれ落ちていく」
「今が、その状態です」
「え、どの状態でしたかな」
「春が終わりかけていると、先ほど言ったことです」
「最初から虚」
「そういう気になっていたのです」
「いつまでも、そんな雲を掴むようなことなどよして、地道に暮らしなされ」
「それは分かっておるのですがね。私にも人生の春が欲しい」
「欲しがっているうちが花」
「和尚はどうですかな。和尚の春の花は」
「花とは縁なし、最初から坊主なのでな」
「葱坊主でしたか」
 
   了

   


2021年5月1日

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