小説 川崎サイト

 

怖い人


 日常の中で、いるはずのないものがいたり、あるはずのないものがあったりすると、驚く。
 驚くだけならいいが、大変な目に遭うと、ただの感想だけでは済まない。また、日常外のものならまだ分かるが、現実として有り得ないものだとすれば、それは世界観が変わるだろう。大問題だ。世の中が一変するかもしれない。
 しかし、この世のものではないものの出現は結構慣れ親しんでいるかもしれない。よくあることとして。
 当然、慣れっこになっているのはフィクションの世界。誰かが想像した架空の世界。だから安心して慣れ親しめる。
 一人暮らしの清水の部屋。ほぼ密室だ。そこに何かがいるとすれば、どうだろう。当然虫がいるとかではない。もう少し大きい。鼠ではなく、猫以上のもの。さらに言えば人間。
 いるはずがないのに、人が部屋にいる。鏡に映った自分ではない。これは得体が知れない以上だろう。
 清水はよくそんな想像をする。ふと横を見ると何者かがいたり、窓に人影が映っていたりとか、キッチンを覗くと、流し台の前で誰かが立っているとか。後ろ姿で、それは男女どちらでもいい。どちらであっても有り得ないことなので。
 また開けた覚えのない窓の隙間から、見たことのない人がじっと、こちらを窺っているとか。
 いずれも清水の想像だ。怖い話だが、有り得ないことが分かっているので、安心。そのため、これは想像を楽しんでいるレベル。
 また、トイレのドアを開けると、見知らぬ青坊主がしゃがみ込んでいるとかは、一種の妖怪談だが、それも想像としては有り得ること。清水のオリジナルではないが。
 また、付きまとう息もある。誰かの息遣いが聞こえるのだ。普通の呼吸音だが、それが大きい。自分の息かもしれないと思い、息を止めるが、まだ聞こえてくる。隣室の住人の寝息かもしれないが、すぐ近くで聞こえる。
 清水は怖いことを思っているだけで、想像であり、幻想や幻覚ではない。そのため、思わなければ、そんなものは出てこない。
 そういう妙な想像力があるのだが、想像しているものが片寄っている。人と話しているとき、相手が何を思っているのかというような想像力はあまり働かない。
 働くのは特殊な趣味性の高い、妙な想像力だけ。だから、実用性がない。想像しても仕方がないためだろう。
 だからこそ、安心して怖いことを想像できるのかもしれない。
 
   了


 
   


2021年5月5日

小説 川崎サイト