小説 川崎サイト

 

気濡らし


 雨で何ともならない。と、三村は雨を見ながら思ったのだが、雨が降っていなくても何ともならないことに変わりはない。
 ただ、雨の降る日は晴れている日よりも、何ともならなさが強い。気晴らしができないため。気晴らしにはやはり晴れた空が必要。
 雨の降る日は気も沈み、気持ちも湿っぽくなる。三村はそれを打開したとしても、根本的な何ともならなさに変わりはない。ただ、緩和させることはできる。それが気晴らしだ。
 しかし、逆ネジをぶち込む方法もある。沈んだ気持ち、湿気具合をさらに濡らすこと。いっそ濡れ雑巾のようになれば、スッキリするのではないかと妙なことを思い付いた。
 春とはいえ、まだ水はそれほどぬるんでいない。行水をするわけではないので、水温は関係ないが、降りしきる雨の中を傘なしでうろつけば、水に打たれる行に近いのではないか。行者だ。滝に打たれることを思えば、雨なら大したことはない。
 しかし、滝に打たれると冷たいこともあるが、痛いのではないか。三村は打たれた経験はないので、何とも言えないが、振動がいいのかもしれない。
 まあ、三村にとり、滝行は苦行だが、雨なら何とかなる。それで、雨行に出ることにした。これには行場はない。人が歩ける場所なら、全てが行場。
 雨は中ぐらいで、弱くはないが、強くもない。どちらかというと弱いほど。
 これは滝と比べれば、かなり楽。ただただ濡れるだけ。
 方法は簡単。傘を忘れた人になればいい。だが、この雨、かなり前から降っているので、そこが問題だが、こまいことは抜きにする。
 それで、部屋を出て、降られるまま、濡れるがまま歩きだした。どの程度耐えられるかだ。衣服が濡れ、染み込んでくれば、少し考えるだろう。やめようと。それは三村次第。
 身に付けているもの全てビシャビシャになってもいいという覚悟はできている。これは苦行なのだから。敢えて選んだ行為。
 それに、ただただ外を歩くだけで、戻ってくるだけ。目的地はない。そこで何かをやるわけではないので、びしょ濡れでもいい。実際のところ、衣服が濡れているかどうか、染み込んでいるかどうかは一見して分かりにくい。
 そして、三村は歩きだした。気晴らしの逆ネジの気濡れだ。逆ネジこそ行。これだろう。そう思うと、もう既に元気になり、やる気が出てきた。それは人生に対するものではなく、その愚行に対してだ。
 やはり逆方向へ行く方が簡単に突破できたりする。心境が変わる。しかも即効性がある。
 これは癖になるかもしれないと思いながら、三村は人の多い通りに出た。
 驚いたことに、雨が降っているのに、傘を差している人は僅か。
 雨に濡れながら、とぼとぼと歩いている。中には傘を持っているのに、差さずに刀のように腰に構え、大股で歩いている人もいる。
 既に、この気濡らし、よく知られている行為になっていたようだ。
 
   了
 

 
   


2021年5月8日

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