小説 川崎サイト

 

押し入れの中の闇


 岩田は今日は何もない日なので、何をしようかと考えたのだが、何かある日も何もない日も、それほど変わらない。
 それほど大きな何かがないのだろう。しかし、よく考えると、やらないといけないものは細々とある。少し急ぐ用もあるが、遅れても大丈夫。
 何もない日は、その細々とある用事をすればいいのだが、そんな積極的な気にはなれない。朝、起きたとき、非常に張り切っておれば別だが、余程体調がいいか、ストレスでも抜けたあとだろう。
 スッキリとした寝起きで元気いっぱい。そんな日は滅多にないし、最近では記憶にない。あったかもしれないが、そんなことはどうでもいいこと。
 それで、今日は何もない日のだが、日がなくなるわけではなく、丸一日ある。何かある日との違いは、平日だということ。日曜だと何かある。その程度の違いで、何かのあるなしが決まるのだから、何かある日でも何もない日でも、似たようなものかもしれない。しかし、用事はある。
 冷蔵庫にいつも珈琲を入れている。紙パックの珈琲。これが切れていると、買う必要がある。一リットル入りなので、すぐにはなくならないが、前夜、飲んだとき、あとコップに一杯分ほど。それにブラックなので、シロップとフレッシュも注意して見ていないと、切れていることがある。
 何かあるとは、その程度だが、これは特に何かあるわけではないので、一般的には何もない日と同じだろう。何もなくはないが、普段通りの日々。
 岩田はいつ頃から、そんな何もないような暮らしになったのか、と、ふと、思い返してみた。
 やはり仕事を辞めてからだろう。仕事は用事の塊、やることが多い。そのあたりがごっそりなくなったので、あとはプライベートなことしか残らない。
 その日は本当に何もない日で、ただただ生きているだけ。まあ、それだけでも大したもので、人が何とか生き、年を重ねていくだけでも、奇跡のようなものかもしれない。
 別に戦場にいるわけではないが、たまたま生き延びたという感じだ。まあ、多くの人がそうなのだが、それでも何かの拍子で、終わってしまうこともある。これは肉体的にも精神的にも。
 そう考えると、生きているだけでも大したものだと思えるのだが、やはり何もない日々では、何ともならない。
 そんなことを思いながら夜を迎えた。いつも食べているようなものを食べ、いつも飲んでいる珈琲を飲み、寝るまでの間、ゴロンとテレビやビデオ、音楽を聴いたり、ネットを見たりしているうちに寝る時間になる。
 岩田はそういうものを見たり聞いたりしているのだが、岩田自身とは何ら関係のない別世界。一人で物思いに耽っているのと変わらない。それを目を開けたまま、色々な世界を飛び回っているようなもの。要するに殆どはフィクション。現実にあったニュースでさえ、別の世界の話のように思われる。
 そして、そろそろ寝る体勢に入ろうと、少しだけ片付けをしているとき、物音が聞こえてくる。
 音の出るものは切ったはず。TVも切っているし、ネットも終了させている。
 音が出ているのは押し入れ。何かいるのだろうか。
 その押し入れ、滅多に開けたことはない。使わないものを仕舞い込んでいるので、開け閉めは滅多にしない。
 岩田はそっと押し入れの戸を開けた。何かが引っかかっているようで、すっと開かないが、隙間から暗闇が見える。
 さらに開けると、闇のまま。後ろの天井からの蛍光灯で、それなりに中は見えるはずなのだが、それが見えない。まるで黒い紙を貼ったように。
 音はそこから出ている。音楽かと思っていたが、そうではなく、言葉だ。
「はよーこいはよーこい」と聞こえる。それを繰り返している。
「早く来い、早く来い」だろうか。
 特に何もない日、それが暮れようとしているとき、何かがあった。それもとんでもない何かで、今まで体験したことのない何か。
 岩田はそっとその暗闇の中に入っていった。
 当然、それは夢でも見ているのだと、何処かで気付いているので、怖くはなかった。
 
   了
  


 
   


2021年5月11日

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