小説 川崎サイト

 

表札


「今日は何でしょうかな」
「いえ、別に用はないのですが、この近くを通りかかったものなので、顔を出そうかと」
「出しましたね」
「はい、出しました。では、これで失礼します」
「あ、そう。もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「いえ、顔だけ出せば、それで十分です」
「まあ、久しぶりに君の顔を見て、安心したよ。元気で何より」
「先生も」
「ありがとう」
「では、これで」
「しかし、何かあるじゃろ。顔だけ出しに来たわけじゃあるまい」
「畏れ入ります」
「用事は何だ」
「はあ」
「じゃ、訊かないでおこう」
「有り難うございます。じゃ、これで」
「うむ」
 これで話が通じたようだ。訪問者の用も、それで果たしたようなもの。用があると言っただけで、もう了解したのだ。用は一つしかない。
 妖怪博士は数日後、その訪問者宅を訪ねることにした。すぐに行かなかったのは、立ち上がりが悪いため。行くとなると、それなりの覚悟がいるし、また用意するものもある。
 その訪問者、北口という名で、郊外で一人暮らし。いかにも出そうな家には住んでいない。中古だが、今風な建材を使った建売住宅。最初から出来上がっている家。似たような家が並んでいる。同じ時期に建ったものだろう。
 敷地が狭いため、ガレージは家の一階にある。それで庭らしいものも、一応あるが、母屋の横は通路程度の余地。庭は裏側にあるが、日当たりが悪い。そういう同じタイプの家が数軒並んでいる。
 北口は妖怪博士の教え子だった。その縁で、よく相談に来ていた。当然、出る話。
 それが幽霊なのか、妖怪なのか、そのあたりは分からない。何かいるような気配がするだけで、ビジュアル性に乏しい話。
 妖怪博士は、何度かその家を調べたが、何も出てこない。また博士には霊感がないので、感じることもできない。また、出そうな雰囲気の家ではない。
 それで、解決しないままなので、北口は異変を感じると、妖怪博士宅を訪ねていた。
 今回も、またか、と思われそうなので、顔を出しただけ。それで、用が分かる。
 徒労は疲労になる。妖怪博士は先ずそれを覚悟した上で、家を出ている。
 そして、ドアをノックすると、しばらくしてじんわりと開いた。中から顔が少し見える。その状態で「どなたですか」と低い声。
 似たような家が並んでいるので、間違えたのだろう。
 谷口の家は、その筋ではなく、隣の筋だった。筋の端は行き止まり。その筋も私有地。
 筋の端から三軒目。今度は間違えず、谷口邸に入ることができた。
 谷口はこの家で仕事をしている。だから、いる確率が高い。妖怪博士は連絡もしないで、来ている。留守なら、別の日にすればいい。
 谷口邸は敷地が狭いので三階建てだが、四階がある。ここは物置のようなもので、頭を打ちそうだし、上は三角。
 当然、妖怪博士は、ここだろうと、すぐに考えたのだが、谷口の話によると、そこには出ないようだ。
 一階はガレージだが、キッチンも一階にある。出るのは玄関口とキッチン。二階はリビングで、三階は寝室。谷口は二階のリビングで仕事をしている。
 リビングは毛の長い絨毯が敷き詰められ、まるで芝生だ。妖怪博士はふらつきそうになる。蒲団の上を歩いているようなもの。しかし、部屋中が座布団のようなものなので、座布団はない。
 妖怪博士は適当なところに座ると、谷口は小さなテーブルをそこに置き、お茶の用意をし始めた。といっても冷蔵庫からウーロン茶を出し、コップに入れるだけ。あとは灰皿だ。
 谷口は大きなソファーを背もたれにして、いつもそこに座っているようだ。ソファーに座ると、寛ぎすぎるためだろうか。
「今度は何処に出ましたかな」
「リビングへ、誰かが上がってくる気配がしました」
 一階は玄関とキッチン。リビングは二階。その階段を誰かが登っているような音がしたのだろうか。しかし、音ではなく、階段がきしむような感じがしたとか。
「弱いですなあ」
「何でしょう。先生から頂いた御札も効きません」
「あれは、そもそも効かない。ただの気休めなのでな。しかし、相手によっては効くことがある。それが御札だと分かる相手に限るが」
「正体不明ですねえ」
「気になりますかな」
「なります。正体さえ分かれば、いいのですが」
「正体などないのかもしれませんよ」
「すみません。曖昧な話で。気のせいだと言われれば、それまでのことですから」
「この家が建ったのは最近ですな。それまでは田んぼだった。それ以前のことまでは分かりませんが、奈良時代、既に村があったことは分かっています。一応調べましたが、特に何かがあったような場所ではなさそうです」
「ええ、僕も、それとなく図書館で調べたり、ネットを見たりしましたが、平凡なものです」
「だから人ではないと思いますよ」
「僕もそう思います」
「この家が建ったとき、最初買った家族がいましたねえ」
「はい、調べました。普通の家族です。転勤とか」
「だから人は関係していないように思いますなあ」
「じゃ、やはり妖怪でしょうか」
 妖怪博士なので、そこは妖怪に持ち込みたいところだが、何が妖怪になったのかがまったく分からない。
 谷口は一人暮らしだが、実際には家族がいる。家は別にあるのだ。だから、ここは仕事用に借りている書斎のようなものだろうか。
 その日も、要領を得ないまま、妖怪博士は御札だけ置いて、引き上げた。
 郊外の住宅地。駅までの道沿いもそんな感じだ。
 妖怪博士はそれらの家々を適当に眺めているとき、ふと、ある考えが浮かんだ。
 表札。
 柴田や八重樫。北村や荻野。色々な姓があるものだと、そんなことを考えている最中、思い付いたのだ。解決方法を。
 戻ってから、妖怪博士はすぐに谷口に電話をした。「表札を出しなさい」
「え、どういうことですか」
「表札がない」
「ああ、仕事場なので、いらないかと思いまして」
「御札ではなく、表札だ。それが効く」
「どうしてですか」
「同じような家が並んでいるじゃろ。だから、間違う」
 その後、ややこしい現象は治まったようだ。
 
   了

 


2021年5月15日

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