小説 川崎サイト

 

儚い夢


「人生は儚い」
 峠の茶店で同席した老人が呟き始めた。誰に言っているのかと、柴田は老人を見る。茶店の主は奥にいる。すると独り言。柴田は老人の横に少し離れて座っている。その椅子はテーブルでもあるので、荷物とアンパンを置いている。アンが少し固い。
 茶店で売っているものだが、どうも古いようだ。アンコから水分が抜け出しているのか、カサカサした味。分解して砂糖でも出てきそうだ。そういえばアンに白い箇所が見える。白アンではない。
 柴田が老人の方を見たので、老人はそれに気付き、「人生は儚い」のくだりを柴田にぶつけてきた。投げかけた言葉に反応せよと言わんばかりに、目を細めたのだが、きつい目だ。無理に目を細めているためだろう。
「はあ」
 と、柴田は曖昧な息のような声を出す。
「一瞬の夢、うたた寝しておる間に見たような一生分の夢」
「どんな夢を見たのですか」柴田はそういう返し言葉しか思い付かなかった。意味があってのことではなく、とっさに出たのだ。
「え」
「どんな夢を見られたのですか」
「誰が」
「お爺さんが」
「わしか、わしではない。たとえだ」
「そんな夢など、見たことはありません。一生分の夢でしょ。長いでしょ。今まで見た夢を全部集めたような」
「違う、一生の出来事をうたた寝して間に見たのじゃ」
「お爺さんが」
「違う。わしは見ておらん。たとえじゃ」
「あ、はい」
「苦しい中から出世し、大人物となり、やがて誤解されて罪人となり、しばらくして冤罪が晴れ、大大人物として復活し、素晴らしい人生になるが、病に倒れ、引退する。しかし人望のある人だけに、いい余生を送るが、そのうち旅でまた病み、動けぬ身体となり、人に騙されて財を失い、哀れな最晩年となる」
「景気がいいようで悪いような話ですねえ」
「最後は悪い。そういう夢を見た人がいた」
「お知り合いですか」
「たとえじゃ」
「あ、はい」
「まだ若い人でな。その夢を見て虚しくなった。それで大出世をするため、都へ行くところだったが、田舎へ引き返したという話じゃ」
「でも出世するのでしょ」
「しかし、それもこれも最晩年は虚しいもの。それなら、最初から出世などしない方が、まし」
「でもいいことがいっぱいあるはずですよ。だから都へ行こうとしたのでしょ」
「この峠は昔は都へ上がるときの道じゃった」
「そうなんですか」
「分かるか、人生の儚さを」
「いいえ」
「君も出世したいか」
「それは望んでいませんよ。今のままの気楽な生き方で」
「それでは話が進まん」
「あ、はい」
「人生は虚しい」
「楽しいと思いますよ」
「ん」
「この古いアンパンは駄目ですが、アンコがいっぱい入ったアンパンがあります。アンとパンとの相性がいい。アンパン用に調理されたパンですからね。ゴマも二種類乗っている。これをいつか買いたいのですが、高いし、すぐに売り切れます。また、並んでまで買うほどのものじゃない。しかし、たまにまだ売れ残っているときがあるのです。これが買い時、まだその日は来ませんが」
「何じゃそれは」
「楽しみです」
「そういうアンパンを食べて楽しいか」
「楽しいですよ」
「人生、充実するか」
「します。生きていたよかったと」
「話が厳しい。わしが言わんとしていることはね、そういうことじゃなく」
「すみません、何か話しの腰を折ったようで」
「君も都へ出て栄光を掴むタイプか」
「いえ、そんな栄光などいらないです」
「あ、そう」
「で、お爺さんはどうなのです」
「わしのことなど、どうでもよかろう」
「あ、はい」
「では、わしは行く」
「都へ」
「違う」
「はい、じゃ、御達者で」
「む」
 
   了


2021年6月4日

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