青沼の怪
湿っている。梅雨時だ。妖怪博士は調子が悪い。そんなときに限って、訪問者が来る。
奥の六畳で横になっていた妖怪博士は、適当なものに着替えて、玄関に出た。
「ごめん下さい」
くぐもった声。鼻でも悪いのだろうか。
「開いていますが」
「失礼します」
訪問者が玄関戸を開けると、その姿が現れる。これが妖怪なら、手っ取り早い。取材に行かなくてもすむ。しかし、妖怪の宅配ではなく、何かくたびれたような中年男。干し柿になりかかっているような顔だ。
「頼みたいことがありまして、よろしいですか。ここは妖怪博士のお宅でしょ。間違いありませんね」
「そうです」
「じゃ、妖怪について語ってもよろしいですね」
「はい、結構です」
妖怪博士は奥の六畳へ干し柿を入れた。
「泥が池、青沼とも呼ばれています」
いきなり、ローカルすぎる地名が出た。この場合池名だろうか。地面ではない。
「この季節。特に青くなります」
「水草が多いのですかな」
「それは生えていません」
「じゃ、藻とか」
「さあ、それは分かりませんが、青沼です」
「その青沼がどうかされましたか」
「その青沼が、怪しいのです」
「青沼が妖怪だと」
「妖怪が青沼なのか、青沼が妖怪なのかは分かりませんが、青いことが怪しいのではなく、ややこしい場所なのです」
「具体的に、どんなものが出ますかな」
「青沼まで、そっと近付くと、さっと何かが飛び込むような」
「古池やかわず飛び込む云々ですかな」
「畦道ではよくありました。足場の先々で蛙が逃げていきます。小川に飛び込むのもいました。中には蛇も。下手をすると、踏みそうになるので、怖かったですが」
「青沼に何かがいて、人が近付くと、さっと水の飛び込み、姿を隠すとかですな」
「いえ、それは魚が跳ねたのでしょう」
「魚がいるのですかな」
「水溜まりではありません。長く池のままです。元々は窪地だったのでしょう」
「はい」
「鳥も来ます。水鳥も」
「要するに動くものが結構いるわけですな」
「しかし、得体の知れぬものが、その中に含まれているようで」
「山の怪の一種ですな。あらぬものがいそうな雰囲気だけがする」
「はい、いるような雰囲気はしますが、見たことはありません」
「それで、私にどうして欲しいわけですか」
妖怪博士は嫌な言い方をしてしまったと後悔した。実は妖怪よりも、その青沼まで行って、調べてくれと頼まれるのではないかと、恐れたのだ。怪異よりも、その依頼の方が怖い。
じめついた梅雨時、体調も優れない。これは出掛けるのを避けたいところ。
干し柿はじっと妖怪博士を見る。その目は、柿のタネに近い。
「お前が妖怪だ」と、妖怪博士は、言いたいところだが、流石、口にしない。妖怪を語る人が実は妖怪じみた人。それなら妖怪博士など、妖怪そのものになる。
「駄目ですか、調査は」
「目的は何ですかな」
これもまた、嫌な聞き方をしたと反省した。
「興味があるのです。あの青沼に」
「それで、わざわざ依頼しに来られたのですかな」
「そうです。青沼を博士に見て頂くだけでもいいのです」
「それは、どういう意味ですかな」
妖怪博士はまた嫌な聞き方をしてしまった。体調が悪いのだろう。
「青沼の怪異は子供達が言いだしたことで、河童がいるとか、人ほどの大きさの大蛙がいるとか。また、巨大なエビガニがいて、ハサミをたまに出しているとか。また、大蛙と大エビガニがバトルしておるとか」
「大人は」
「そんな伝説はありません。村から近いので、子供達がたまに冒険に出掛けるようです」
「しかし、分かりません」
「正体がですか」
「いや、あなたが、そんなことを調べて欲しいという理由がです」
また、嫌な言い方をしてしまった。
「趣味です」
妖怪博士は、やっと納得できたようだ。
「引き受けて貰えませんか。妖怪博士のフィールドワークを見たいのです。自分も好きなので、参考にしたいと思います」
妖怪博士は基本的に実地調査はしない。それに相手は妖怪。具体的な何かが出てくるわけではない。探すとすれば、その語りの構造だろう。または語っている人の頭の中だろう。
しかし、その干し柿、頭の中は素直なようで、柿のタネのような目玉は黒目がちな子供のもの。
悪くはないと思い、妖怪博士は引き受けることにした。町中よりも、その山際の森に囲まれた湿地にある青沼の方が爽やかではないかと思ったためだ。
しかし、町中よりも湿気が高いかもしれない。だが、自然の中にいる方が、自然ではないかと単純に考え、引き受けてしまった。
数日後、妖怪博士は担当編集者を連れて、その青沼へ向かった。乗り換えなどが多いし、便も悪いので、干し柿が車で迎えに来てくれた。
担当編集者は、名刺を干し柿に渡した。干し柿は満足そうだった。
そして、青沼へ、すっと行くことができたのだが、怪異などあるわけがない。しかし、子供達は証言した。相撲取りほどある蛙が泳いでいたとか、岸で蛙が四股を踏んだり、股を割っていたとか。
誰が聞いても嘘丸出しだが、妖怪博士は少し楽しくなった。兎がいれば、鳥獣戯画だ。しかしリスがいるようだ。
遅い目の昼を青沼の畔でとった。干し柿が仕出し屋で頼んだ弁当が出た。あまりいいものではなかったが、森の中で食べると、意外と美味しい。
「先生、何とかなりますか」
「相撲取りの蛙だな。それを青沼のヌシにするか」
「はい、よろしくお願いします」
結局、現場を踏むのを嫌がっていた妖怪博士だが、機嫌がいい。体調も戻ったようだ。
了
2021年7月15日