小説 川崎サイト

 

巨大な亀と甲虫


 世の中には妙なことを言い出す人がいる。夜中、家の前の通りを見ると、巨大な甲虫が歩いていたとか。
 町内の生活道路なので、車がすれ違えないし追い越せない。一方通行ではないので、対向車が来たらどうするのだろうかと、そちらの方を心配したりする。
 また、海亀、ゾウガメなどよりも大きく、浦島太郎の亀よりも大きく、戦車並みの亀が水辺にいたとか。これも同じ人の目撃談。
 甲虫と亀のスケールが合っていたりする。亀より小さな甲虫は普通だが、甲虫より小さな亀は赤ちゃんならいるかもしれないが、小さすぎる。
 たまに見かけるハチなどの昆虫、それはハチだとは分かるが、人ほどの大きさになると、もう分からない。昆虫の頭部、顔などを拡大して見ているようなものだ。滅多にそんなことはしないだろう。
 それで、ハチの顔は、こんな顔だったのかと、初めて分かる。そのへんを飛んでいる蚊もそうだ。よく見ていないが、飛んでいれば蚊だとは分かる。
 しかし、これも拡大すれば、蚊なのか、どうかが分からない。蚊の顔など知っているようで、知らない。
 蚊の目とか、口元とかはさらに初めて見るようなもの。身近にいるのだが、よく見えていないのだ。その必要がないためだろう。
 そういった巨大昆虫とか、爬虫類とか、虫とかの話を散々喋り倒した客がやっと帰った。
 妖怪博士はどっと疲れを感じたが、語り手も熱演しすぎてか、フラフラになって、帰って行った。
 巨大化しただけで、それが妖怪だと言えるのかどうかは疑問。しかし、他に話を聞いてくれる相手がいないので、妖怪博士は、たまにそういう爆弾を受ける。
 ただ、幻想や、幻覚ではなく、作り話だということがすぐに分かる。だから、安心といえば安心。最初は作り話だが、何度もそれを繰り返していると、フィクションが幻想や幻覚に変わる。
 幻覚だと、それなりに見えてくる。幻だが、その幻が見えるので、感じることができる。これを空想を楽しむというのだが、空想なのに具が入るかもしれない。妖怪もそうだが、妖獸がそれかもしれない。
 先ほどの客は病んで幻が見えるのではなく、空想しているだけのタイプ。だから、妖怪博士も適当に聞いていたのだが、そのテンションの高さに疲れたようだ。
 妖怪博士も妖怪を作るタイプだが、妖怪化させた方が分かりやすいため。人の仕業ではなく、妖怪の仕業にした方が好ましいことがある。そんなものなどいないのが常識なので、本気で信じる人はいないだろう。何かの比喩であり誇張で、それが具体的な形を取っているだけ。
 どっと疲れた妖怪博士だが、ややこしい話を聞いたあと、それに近いものが実際に現れるのではないかとは思わないが、想像の中ではいくらでも現れるだろう。
 幻想だと分かりつつ幻想に惹かれるのは、現実というのが元々が曖昧なもののためだろう。
 
   了



 


2021年7月18日

小説 川崎サイト