美味しい感性
感覚はある。何かの事情で感覚がなくなることもある。痺れてしまったりだ。この場合も、感覚がないという感覚はある。あるはずのものがないので。
また、感覚がなければ何ともならない。内側のことも外側のことも分からなくなるため。
だから感覚は特殊な場合を除いては、誰にでもある。
ところが、感覚ではなく、感性になると別。感性がない人がいたりする。これは見る目がないとか、感じる力が弱いとか、浅いとか、まったく関知しないとかで、感性が鈍く、乏しい人はいる。
ただ、この感性、ものにもよる。事柄にもよる。他では鈍いし、無頓着だが、ある面では、優れた感性を持っているかもしれない。
感覚を研ぎ澄ませる。これはできる。感性を研ぎ澄ませる。これは感覚以上の含みが加わる。知性的な面、知っているとか、よく知っているとかで感覚以上のプラスアルファが加わる。
そして感覚の鋭い人より、感性の鋭い人の方が、高く見られる。どちらも感覚の内だろう。それを別のところと結びつけるのかもしれない。
感覚も色々な過去の感覚と照らし合わせるのだが、感性の方がより、その人の性格などが出ていたりする。だから、含まれているのは、その人の性分だったりする。
感覚ではなく、感情が含まれすぎなのかもしれない。
「私の見た感覚では、大凡、こんなものでしょ」というのはすっと感じただけの浅いもの。これが意外と本質を突いていたりする。
浅いので、そこまで掘り下げていないのだが。
感性の方が人間性が加わったりし、これは生臭い。感覚の方がドライ。
音がする。高いか低いか程度で、聞いたことのある調べだとか、音楽なら、ジャンルが分かる。その程度。
これを感性で聞くとなると、疲れるだろう。それとあらぬところまで展開し、現実とはかけ離れたところで、感じ入ってしまう。
感覚はもっと肉体的、身体的。危険を感じる力でもある。だから、より動物的で、こちらの方が基本だろう。
感覚の鋭いネコはいるが、感性の鋭いネコは、あまり聞かない。感性の強いネコ、これは単に臆病なだけだったりする。
だから、感性の方がより繊細。しかし、感覚の内だろう。その受け取り方が違ってくるだけ。
普通の感覚というのがある。特に捻っていない。また、それを感覚だとも気付いていない。ましてや感性など、もっと後の話。
感覚を間違えば、事故になるが、感性は間違っていても、それほどのことにはならない。ただの感想を述べているだけ。
ただ、美味しいのは、この感想の方だろう。あまり実用性はないが。
了
2021年7月25日