小説 川崎サイト

 

立っている人


 とりあえずやってみることで、様子が少し分かる。行けそうなら、そのまま行けるところまで行けばいい。あまり芳しくなければ引き返せばいい。これで考える必要がない。まずはやってみることだ。
 と、師匠に言われたのだが、木村はなかなかそれを実行できない。思案中だ。想像しているだけ。おそらくこうなるだろうというのは予測できる。それがプレッシャーになり、踏み出せない。
 それには覚悟がいる。その前に準備もいる。だから、師匠のようにいきなり始めることなどでできない。思慮深く、臆病なためだ。思慮が臆病を呼び込むのかもしれない。
 師匠はそういう恐れを知らずにやってきた人なので不言実行の人ではない。だから、説得力があるのだが、木村にはできない。
「分かっているのですがね、師匠。どうも一歩が」
「重い一歩なのじゃな」
「そうなんです」
「軽い一歩にしなさい。何せまだ一歩なのじゃからな。気に入らなければ、戻ればいいのだから、簡単じゃろ」
「かなり先のことまで考えていました。一歩は楽だと思いますし、その一歩は問題ありません。しかし数歩先を見ると、これは厳しい。それが見えてきまして。だから、そこまでの何歩かが無駄になります。数歩先で、どうせ引き返すのですから」
「数歩先ねえ。そこにややこしいものがあるのかね」
「はい、これは簡単ではないと思います」
「それも踏み込んでみないと分からんじゃろ。恐れているものとは違っていたりする。予測とはそんなものじゃ。憶測など当てにならん」
「でもその数歩先を突破できたとしても、さらにその先に、またややこしいものが待ち受けていますし、また状況はより複雑で、私には手が負えないかもしれません。どちらにしても先へ行くのは難しいかと」
「それで、最初の一歩さえ踏み出せないのじゃな」
「はい、そうなんです。師匠」
「先を見すぎじゃ、読み過ぎじゃ」
「どうすればいいのですか」
「目の前にある次の一歩。これだけを見ておればいい」
「それでは視野が狭くなります」
「視野を広げると怖いものばかりが見えてくる。まあ、楽しいものも混ざっておるがな」
「足元だけを見て歩けということですね」
「前へ進みたいだけならな」
「下を見て、前進ですか」
「目を瞑って前進でもいい」
「それじゃ折角踏み込んでも、足元しか見ていないことになりますよ」
「目的は進むことじゃなかったのかね」
「そうなんですが」
「そんなに進まなくても、一歩踏み込めば、先がどうなっているのか、全体も何となく見えるもの。一歩手前では見えんが、一歩踏み込めば見える。そこで、全部見えたりする」
「本当ですか。それじゃ進まなくても、分かってしまうのですね」
「大凡のことはな。一歩手前のときよりも明解に見えるだろう。門の外と内との違い。それだけで十分見える。だから、難しいことなど心配せず。とりあえず一歩踏み出せと言っておるのじゃ」
「はい」
「何歩も、何十歩も、何百歩も進んでも、大した違いはなかったりする。問題は第一歩なのじゃ」
「師匠の言うことは簡単すぎて、簡単に一歩足が出るのですが、逆に、それが信じられません。そんな簡単なものだとは思えないからです」
「まあ、そういわず、試してみなさい」
「はい、やってみます」
 しかし、弟子はまたいろいろと考えすぎ、想像しすぎて、怖くて、その簡単な最初の第一歩を踏み出せないまま立ち尽くしていた。
 
   了

  


2021年9月4日

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