小説 川崎サイト

 

妖怪黒靴


 妖怪博士の家は路地の奥にある。その入口で揉め事でもあったのか、人が出ている。黒光りのする大型車が止まっており、その運転手が頭を下げている。そして、さっと車を走らせ、表通りへ向かった。
 妖怪博士担当編集者は、それを見ていたのだが、何事もなかったようだ。要するに、ここに止めるなという話だろう。
 しかし、そこへ来るまでも、自販機の前に妙な人が立っていた。近所の人ではないことは一目で分かる。妙な服装ではなく、スーツ姿。
 まあ、編集者も近所の人からはそう見られているのかもしれない。このあたりは人が行き交うような市街地ではなく、古びた住宅地。しかし建物は安っぽい。
 それで、妖怪博士宅の路地に入ったのだが、路地の奥に、また一人いる。この路地、昔の長屋だろう。それがまだ残っている。
 妖怪博士宅の玄関を編集者はそっと開ける。声をかけないで、勝手に入る癖ができてしまった。この家は鍵はあるのだが、かけていない。
 すっと廊下に上がり、奥の六畳へ行こうとしたが、その前に黒い靴が出ているのに気付いた。黒光りしている。妖怪博士は外出のとき、そういった黒い靴を履くが、光っていないし、サイズも違う。
 そして廊下を通り抜け、一部屋先の奥の六畳の前に来たとき、話し声が聞こえた。やはりあの靴は客なのだ。
「陰陽師ですかな」
「はい、博士ならご存じかと」
「いくらでもいるでしょ」
「先ほども申しましたように、普通の陰陽師ではなく、本物の」
「さあ、平安の昔なら、いざ知らず、今の時代」
「心当たりはありませんか」
「明治の頃、気象庁にいたとか言いますがな。江戸時代の天文方です」
「信頼できる人がいいのですが」
「まあ、家系図付きの陰陽師なら問題はないでしょうが、時代がねえ」
「じゃ一つ譲って、陰陽の術に長けた人、ご存じありませんか」
「祈祷をやる人なら、いくらでもいるでしょ」
「実は」
「何でしょうかな」
「博士が使い手だと聞いてまいりました」
「ほう」
「もし、他にご存じないのなら、博士にお頼みしたいのですが、聞き入れてもらえる可能性はあるでしょうか」
「いや、私は」
「極秘事項になります」
「それはねえ」
「報酬は出ません。出せませんが、経費は出します」
 そのとき、この依頼人から音がした。
 声だと思っていたがそうではない。昔のポケベルのような音だ。
 依頼人は内ポケットに手を入れ、音源を消した。
 そして、玄関が大きく開く音。端に当たったのか、敷居に乗せていた油差しの瓶が落ち、金属音を出す。続いて廊下を走る音。
 編集者は奥の六畳前で盗み聞きしていたのだが、その横をすり抜け、襖を開け、依頼人に寄り添った。
「裏庭から抜けられますか」
 スーツ姿が、妖怪博士に聞く。
「はあ、狭いですが」
「失礼、といいながら、依頼人の手を引き、庭へ降りた。
 編集者は、そっと奥の六畳に入る。
「何か劇でも」
「さあ、さっぱり分からん」
「表に、不審な人や、車とかが止まっていましたよ」
「そうか」
 騒ぎはそれで終わり、あとは静かになり、何事も起こらなかった。
 何があったのかは分からないままだが、黒くて光沢のある立派な靴だけが残った。
「先生、この前のドタバタ、あれは何だったのでしょうねえ」
「さあ、妖怪黒靴でも出たのだろう」
「あ、はい」
 
   了



2021年9月10日

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