小説 川崎サイト

 

忘れました


「簡潔にお願いしたいのだが」
「はい、分かっています」
「では、簡潔に用件を言いなさい」
「今日は気温は低い目なのに、蒸し暑いですねえ」
「聞いていなかったのか」
「え、何を」
「簡潔に」
「枕はいるでしょ。まずは挨拶代わりに」
「いらない。用件だけを言いなさい」
「何を着るのかで、迷っています」
「それが用件か」
「いえ、まだ時候の挨拶内です」
「省略しなさい」
「はい。それで涼しいので」
「まだ、言っているのか」
「いえ、これが本題です」
「続けなさい。そして頼み事があるのなら、それを先に言いなさい。それがどうして必要なのかはいい。そんな説明はいい」
「はい」
「さあ早く」
「えーと、何か忘れました」
「忘れた」
「はい」
「じゃ、何のために来たのだ」
「先ほどまで覚えていたのですが、蒸し暑いがどうのと言っているとき、落としました」
「拾いなさい」
「はい、思い出します」
「出たか」
「出ません」
「じゃ、出直しなさい」
「はい、そうします」
「面倒なやつだ」
「あ」
「どうした」
「今、思い出しかかりました」
「じゃ、言いなさい」
「でも、すぐに引っ込みました」
「もういい、出直しなさい」
「そうします」
 
 その屋敷を出た男は、しばらく歩いていると、思いだしたのではなく、依頼人と出会った」
「どうだった。首尾は」
「成功です」
「では、すぐに、あの屋敷内の見取り図をこの紙に書きなさい」
「はい」
「忘れぬうちにな」
「はい」
 しかし、筆が動かない。
「どうした」
「忘れました」
「忘れた。見たんだろ。覚えているところだけでいい」
「しかし、廊下を何度か曲がり、奥の部屋に通されたのですが」
「覚えているじゃないか」
「図で書くと、難しいです」
「だから、覚えているところだけでいいから」
「はい」
 しかし、筆が進まない。
「どうした」
「もう一度、見てきます。今度は書きながら、進みます」
「そうか、頼むぞ」
 男は思い出したと言って、またあの屋敷に入り、奥の部屋へ案内された。しかし、歩きながら図は書けないようで、やはり、しっかりと記憶するしかない。
「どうした」
「思い出しました。用件を」
「では頼み事だけが言いなさい」
「えーと」
「また、忘れたのか」
「いえ、分かっています」
「じゃ、言いなさい」
「この屋敷の見取り図、間取り図を下さい」
「ほほう。用件だけを説明なしで、よく言えた。余計な事情など聞きたくない。それがいるのなら、やろう。今、わしが書いてやる」
 しかし、書こうとしたが、複雑すぎて、辻褄が合わなくなってきたので、家人を呼び、見取り図を持ってこさせた。
 男はそれを受け取った。
「こんなものでいいのだな。では代金を頂こうか」
「わ」
「どうした」
「忘れました」
 
   了

 


2021年9月16日

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