小説 川崎サイト

 

手を振る自転車


 それは盆が終わった頃。シトシトと雨が降り続く陰気な空が去り、久しぶりの青空。そして夏の暑さが戻っていた。
 井上は喫茶店の前で鉢植えの世話をしている。店には客がいない。水はいやというほど吸い込んでいるので、枯れた枝葉などを取り除いていた。
 表通りと店とは狭い公園で挟まれている。何気なく井上は顔を上げ、表通りの方を見ると、自転車が横切ろうとしていた。そして、すっと手を上げた。自転車の主は立花で、上半身や顔を井上に向けている。同級生だ。お互いに年を取ってしまったが、その関係は昔のまま。
 店主の井上は「今日はー」と、手を振った。立花は笑顔を見せ、さっと通り過ぎた。凄い偶然だ。井上はいつもは店内にいる。
 鉢植えから一瞬、目を移したので、立花の姿を見たのだが、立花が手を上げなければ、自転車の横だけでは誰だか分からなかっただろう。車や歩行者、そして自転車は、始終通っている。
 
 立花は井上の喫茶店に入ったことはない。しかし、定年後、店をやっているのは知っていた。会いたければいつでも行けば会えるが、それほどの関係ではない。道で出合えば、軽く挨拶ぐらいはするだろうが、昵懇の仲ではない。
 その井上が店の前にいるので、立花は驚いた。又聞きだが、入院しているらしい。それも長い。店は奥さんと息子が手伝っているので、閉めていない。
 立花はまさかと思った。しかし、お盆は既に過ぎている。まさか、遅れて戻ってきたのではあるまい。
 しかし、入院が長引いているだけ。しかも噂。だが、何となく妙な気がした。
 
 喫茶店主の井上も立花を見てから、妙な気になった。果たして生きた立花だったのかどうかだ。何か雰囲気が違う。生き生きとしすぎている。いつもは、もっと重い。それに先ほどのような元気な井上を見るのは久しぶり。それで、まさか、と考えたのだ。
 その後、井上は、表通りを見る度に、立花の自転車を思い出すようになる。手を振る自転車。そしてあの笑顔。
 
 立花は、その後も喫茶店の井上のことが気になり、店の前を通る度に、目を向けた。
 その後、再び、二人は、前回のような偶然がないまま、過ぎ去った。そして、別の場所で、偶然のすれ違いもなかった。
 
   了

 


2021年9月23日

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