小説 川崎サイト

 

蚊の恩返し


 洗い桶に蚊が浮いている。誤って落ちたのか、そこに飛んできたのだろうか。そこで溺れたのかもしれないが、沈んではいない。
 身体全体で浮いているのだ。張り付いているといってもいいが、まったく動かない。泳ぎができる蚊ではないのだろう。しかし蚊になる前は水の中にいたのかもしれない。
 その洗い桶は木谷が食器洗いに使っている。汚れたものを一時そこに浸ける。しかし、忘れたのか、水を抜くのを忘れていた。
 木谷は排水口などを突くとき用の割り箸を、そっと蚊に近付ける。すると、さっと蚊は割り箸に全ての足を絡ませた。
 そのまますっと上げ、割り箸を置くと、少し間を置いてからさっと走り出した。飛ばないのだから、蚊ではないのかもしれないが、その力がまだないのだろう。体力を使い果たして。
 木谷は蚊を助けたことになる。そのつもりはなかった、まだ生きているかどうか、確かめたかっただけ。
 しかし、生きておれば助ける気はあった。簡単なことだ。割り橋一本ですむ。流石に指は使いたくないが。
 その蚊、人がいれば刺す蚊かもしれない。だからいずれ木谷も刺される可能性もある。しかし、蚊の恩返しで、木谷にだけは刺さないかもしれない。
 そんな物語を思い付いたのだが、そういった虫などは知らない間に殺している場合が多い。腕にとまってじっとしている蚊をパチンと叩くと、血が飛び出したりする。吸い過ぎて満腹状態だった。パチン攻撃を受ける前に飛べなかったのである。
 助けることなど滅多にない。殆どないだろう。ただ、木谷はゴキブリを見ても殺さない。後始末が面倒なため。
 どちらにしても、恩よりも恨みの方が多いだろう。だから蚊を助けたからといって、蚊の恩返しなど期待できない。それ以前に蚊の恩返しなど、実際には聞いたことがない。魚類、両生類、爬虫類、哺乳類ならあるかもしれない。
 それで、木谷は恩返しは期待しなかったが、助けたことで気分が少しだけ良かった。
 それだけのことだろう。
 
   了



 


2021年10月11日

小説 川崎サイト