小説 川崎サイト

 

妖怪蟲魚


「形而上学者?」
「はい、東田幾多郎先生で、たまにお世話になっています」
「そこで出たのか」
「はい」
 妖怪博士は東田幾多郎を知っているが、雑誌で読む程度。妖怪博士が連載している雑誌なので、たまに目を通す。
 いつも来る妖怪博士の担当編集者も、この人の担当。そこで、妙な話を聞き、どうも妖怪博士に来てもらいたいとのこと。
「出たのかな、妖怪でも」
「少し変なことがあるようで」
「少しか」
「東田氏と言えば、それなりの学者じゃろ。御本は読んだことはないが」
「出版されていません」
「あ、そう」
「たまに怪異があったとき、東田先生にお願いすることがあるのですが、これは僕の方から出向いてお話を聞きにいくだけです」
「では、私と似たようなものだな」
「そうです」
「それで」
「来てもらいたいようです。妖怪かもしれませんから、妖怪博士が調べられるのが一番とか」
「どんな人かな。東田幾多郎氏とは」
「穏やかなお爺さんです。神の存在などについて考えられている学者先生です。ただ宗教上の神様ではありませんが」
「神学者じゃないと」
「はい、日本や世界にいる色々な神々について、研究されておられます。既に退職されていますが」
「分かった、行ってみましょう」
「お願いします。形而上学者と妖怪博士の対決だ」
「余計なことを」
「あ、はい」
 
 東田幾多郎邸は閑静な住宅地にあるが、周囲の建物に比べ、やや小さく、また坪数も少ない。ただ、このあたりでは結構古いらしい。東田氏のお爺さんの代からなので、そんなものだが、改築や補強はやっているようなので、外壁なども古臭いものではない。
 というような前置きとは裏腹に、簡単な話だった。
 妖怪博士と編集者が訪れると、小学校低学年ぐらいの女の子が出てきた。孫のようだ。少し陰気な感じがするが、単に大人しいだけだろう。
 しかし、客が来たので、応対する。結構積極的な子だ。
 通されたの居間は和室。八畳ほどあるだろうか、内縁があり、その先はガラス戸。だから、縁を加えると、かなり広々としている。普段は使っていないとか。問題はその床の間に飾ってある掛け軸。
 水墨画ではなく、色の付いた絵で、日本画家が書いたものだろう。掛け軸風に縦長の絵。色は薄く、淡い。何となく水墨画を思わせる画き方だ。手前に草花と庭鳥、中程にぐにゃっとした松の木。遠方は森と、その先は山で、上空に雲が浮かんでいる。
 絵そのものに問題があるのではないが、やはり問題がある。
「この絵がどうかしましたかな」妖怪博士もまだ気付かない。これは博士があまり絵に造詣が深くないためだ。
「先生、僕にも分かりません」と編集者。
「説明しましょう」東田幾多郎は優しい声で説明を始めた。しかし、もの凄く単純なことだ。見れば分かりそうなもの。
「松の木の幹に虫がいます。そんなものはいなかった」
 確かに黒いものが幹にいる。幹に止まっているとすれば、かなり大きい。黒いので目立たないのかもしれないが、他のものは白地以外は彩色されている。
「蟹のようですなあ」妖怪博士がそういうと、東田氏も頷く。しかし、その蟹、真っ黒で、黒ベタ。それでも輪郭だけでも蟹のようなものだとは分かる。
 しかし、蟹であるかどうかは分からない。あるはずの爪がない。大きなハサミが二本、これがあってこそ蟹に見えるが、なくても蟹のようにも見える形だ。そして形が、その画家が書く線のタッチとは少し違い輪郭が鋭利。それに絵には黒ベタの箇所がない。
「何だか、分かりますか、妖怪博士」
「さあ」
「この種の妖怪はおりますかな」
「シミという妖怪がいます。そのまんまの妖怪ですがな」
「シミ」
 妖怪博士は手帳を取り出し「紙魚」とか「衣魚」とか「蟲魚」とかを書く。つまり魚類に似た虫なのだ。
 妖怪のシミは、染みなので、当然べたっとしたもので、中味はない。輪郭だけ。
「その妖怪のシミは何をする妖怪ですか」
「ああ、これはただのシミで、こんなところにいつの間にかシミが付いた、その程度のことですよ」
「はあ」
「それで、この掛け軸のシミは何だと思われますか」
「東田先生は、御自身で調べられなかったのですかな」
「語り得ぬものは語ってはいけない」
「いやいや、先生は形而上学者でしょ。語れないようなものを語り倒す学問でしょ。神がいるとか、いないとか、幽霊がいるとかいないとか」
「それは仕事で、わしは想像上のものは苦手でな。得体の知れぬものは怖くて、相手にしない」
 妖怪博士は、指にツバを付ける。眉に付けるわけではない。その絵の黒い箇所に指を当て、そっと擦った。
「油性じゃな」
 滲まないし、指にもつかない。
 編集者と東田氏は驚いた。その結果ではなく、絵に直接妖怪博士が触れたためだ。
 そのとき、襖の向こう側の廊下に人の気配がした。足音だろうか。
「やばいことになりませんか博士」編集者は周囲を見渡す。すっと陽射しが消えたのか、明るさが変わった。偶然だろう。雲の多い日なので。
「これは如何なる現象でしょうか」
 この形而上学者東田幾多郎の問いに、妖怪博士は「世の中には不思議な現象もあるものじゃ」と定番中の定番をかました。
 要するに調べる気がないのだ。そのため、妖怪博士は役立たず。謎を残したまま床の間を離れた。
 帰り際、廊下に出たとき、先ほどの孫娘が下駄箱から二人の靴を取りだし、土間に並べた。
 妖怪博士は、そっと孫娘の目を見た。孫娘は視線を合わせなかった。近すぎるので、失礼だと思ったのだろう。
 何があったのかは知らないが、小学校低学年にしては絵は上手い方だろう。
 
   了
  

 


2021年10月28日

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