小説 川崎サイト

 

心眼


 心眼で見よ、と教えられたのだが、その達人は教えてくれない。教えてくれたのは、心眼で見よと言うことだけ。
 竹村半蔵はまだ若い武芸者。尊敬する人から聞いたので、これは間違いないだろう。これは大切なことに違いない。
 しかし、心眼をいくら探しても見付からない。目は二つ。片目で見よ、ならできるが、三つはない。 一つ足りない。そこで、目に詳しい医師に聞いてみた。ただの漢方医だが、目薬に強いらしい。強い目の薬ではなく、目に詳しい。
 虫の中に見た目、目は二つだが頭のところにも目があるらしい。隠れていて見えないが。複眼なら千個あったりする。
 第三の目、これが心眼だろうと思った。それでは三つ目になるが、心眼は、その三つ目の目のことだろうか。
 そのことを医師に聞くと、心眼は心の目と教えてくれた。そのままだ。その程度のことなら竹村半蔵にも分かる。
 だから、その目は何処にあるかが知りたい。半蔵は額とか、前頭部を探すが、そんなものはない。もっと奥かもしれないが、目玉ではないのかもしれない。だから、心の目なので、普通の目玉のようなものではないのだろう。
 物事の本質を見抜く目。これなら分かる。別に目に詳しい医師に聞かなくても。
 本質を見る目。これは目を使わなくてもいいのではないか。
 それ以上のことを知りたければ、心眼に詳しい人がいるので、教えてやろうと言われた。親切な医師だ。
 その心眼に詳しい人は坊さんだった。竹村半蔵は少し遠いが、そのお坊さんが住む里へ行った。
 心眼を探すようになったのは武芸の達人に言われたから。これは奥義らしいので、秘伝なので教えられないのではなく、説明できないらしい。
 そして、坊さんから説明を受けた。
 先ずは瞑想せよという。それで、半蔵は躓いた。しかし、話だけは聞いてみた。
 心を空にせよと。すると見えてくるものがあるとか。
 だが空にしているのだから、何も見えないはず。それで、また躓いた。
 無相無念も無念無想も同じだ。
 しかし、よく聞いてみると、何も思わないのではなく、余計なことを思わないで、それ一つだけに集中せよという話だった。これならできそうだ。
 しかし、それが心の目だろうか。今、見えているものの中の一点だけに絞る程度ではないか。
 さらに心眼だけに絞って聞くと、心の目で真実を見抜けとなる。これは分かっている。その方法が分からないのだ。
 それで聞くと、先ずは瞑想となり、元に戻ってしまう。
 そして、目で見るのではなく、心で見よと、曖昧なことを、話し出した。
 半三郎は、心の中に目があるのですか。と聞くと、そうじゃ、と答えた。
 心は何処にあるのですか、と問うと、そのあとは禅問答になり、神仏などが飛び出してきたので、訳が分からなくなった。
 それで、聞いても分からないので、退散した。
 別れ際、坊さんは、一言いった。この一言が効くはず。
 だが、わしにも分からん。の一言。
 竹村半蔵が心眼を開いたのはずっと先の話で、それは、いつの間にか開いていたようだ。だから、どうして心眼で見ることができるようになったのかは、分からないらしい。
 そして、武芸の達人となったのだが、結構負けることも多いらしい。
 本当に開いたのだろうか。
 
   了
 


2021年12月6日

 

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