小説 川崎サイト

 

冬の春


 冬の暖かい日。このまま春になってしまうのではないかと北里は期待する。我が世の春は一度も来ない。
 しかし、過去を振り返ったとき、あの頃が絶頂期だったのではないか。だが、そのときは気付かず、またその後も気付かないまま。
 それを最近、気付いたのだろう。何がきっかけなのかは分からないが、春を待っている頃なので、思い浮かんだのかもしれない。
 それは何でもない時期だった。そして平凡な日々。特に変化はなく、望みを掴もうとはしていたのだが、果たせたわけではない。その、うんと手前で難渋していたようで、決して良い時期ではない。
 だが、うららかな春のような時期で、穏やかな日々だったことは確か。決して満足はしていないし、凄いことを成したあと、手に入れた我が世の春ではない。
 過渡期、そして中途半端。春のような陽気ではないが、冬のような寒さや、夏のような暑苦しさ、秋のような物悲しさはなかった。
 絶妙のチューニング、ブレンド。アレンジではない。そんな仕掛けや、心がけなどやっていない。ただの通過地点だと、その頃は思っていたのだろう。最近もそうだ。それに印象に残らない時期だったので、思い出すことも希。
 道中。春の野を通る街道を旅しているような感じだろうか。その道中がよかったのかもしれない。結果ではなく途中。
 そんな時期が注目点になることはこれまで、なかった。これはどういう風の吹き回しだろう。きっと春風のようなものを、先ほど感じたため。寒いが、春を感じる。
 きっと、その頃は、それを我が世の春などとは決して感じなかっただろう。当然、その後も。
 これは最近の北里の心境が変化したのかもしれない。そういう時期を見直し、価値があったのではないか、良い時期だったのではないかと。
 我が世の春など何度も来るわけではない。一度あるかないか。また、まったく来ない場合もあるだろう。
 だが、小春はあるかもしれない。小さな我が世の春。さらに規模を小さくすれば、何度もあるのではないか。
 極端な話、一日の中にもある。
 流石にそこまで入れると多すぎるが、我が世の春が多い分、嫌な季節も計算に入り、逆に増えてしまう。
 小康。これがいいのかもしれない。まるで病気でもしている最中のようだが。
 大吉ではなく小吉。これは当てはまるが、大豆ではなく小豆は当てはまらない。
 我が世と言っても結局は人の世。思い通り行くことで、我が世にしてしまえるわけではない。そういう我が世の春とは違う我が世の春があったことを、思い出したのかもしれない。
 北里はそういう春を思い出したが、そのうち寒くなりだした。春は遠いようだ。
 
   了 


2022年2月14日

 

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