糺すの森の妖精
桜は満開だが、花冷え。冬のように寒い。
妖怪博士は朝が遅く、まだ、寝ている。しかも、いつもよりも起きてくるのが遅い。そこに電話。
「入らずの森なのですが、行きませんか」
と、担当編集者の声。それよりも、受話器を取ったとき、まだ妖怪博士は寝ぼけている。もう一度夢の中に戻りたい。入らずの森、など、いらない。
「花見はできませんが、一本だけ山桜のようなのが白く光っているらしいですよ。ピンクだったかなあ、どちらにしても淡く色の付いた白っぽい桜です。それが目立つので、桜の杜と言われているのですが、その一本だけ。意外と背の高い桜で、横へは伸びていないのです。だから何か炎のように見えるらしいのです。その周囲を妖精達が飛び回っているとか」
寝起きのファンタジー。妖怪博士は今一つ気が乗らない。こういうのは寝る前がいい。
しかし、適当に返事をしていると、行くことに決まったらしい。
しばらくして担当編集者が車で迎えに来た。そのまま現地まで行くらしい。そんな森が近くにあるとは思えないのだが、高速に乗り、一気に田舎くさいところで下りた。
こんなところに降り口があるのかと思える場所。一般道に下りても、トイレと自販機が並んでいる程度。町がない。しかしバス停などがあり、一寸したターミナルになっている。
糺すの森という看板が出ており、地図まである。
山の中にある一寸広い目の谷だろうか。入口は広いが、奥へ行く程狭くなり、あとは川だけとなり、その先に滝がある。
扇型というよりも、もっと扇子を狭く開いた鋭利な三角形のような地形。
滝の近くは、もう渓谷で、川は左側の崖側にあり、山桜は右の広い方にある。その背後は川と交わり、滝も見える。
糺すの森の中程までは車で入れるが、その先は徒歩。ただし、入らずの森ではなく、入れる。そういう立て札もない。
地元の人と行き交ったのだが、この近くに村はない。だが、車止めの近くに祠があり、そこへお参りに来たのだろうか。軽ワゴンが止まっていた。
妖怪博士は森に入ると、元気になるのか、足取りは軽い。
「あそこに地蔵さんがありますよ。その手前にもありましたが、どれも同じ顔ですね」
「これは目印だろう」
「じゃ、道祖神のような」
「迷わないように置いたのかもしれない」
しかし、この森、意外と浅く、すぐに滝の音がしてきた。当然、白いものがチラチラする。例の山桜が隙間から見えているのだ。
「あれですね」
「誰かが植えたのかな」
「何の言い伝えも残っていないようです」
「では、妖精でも見学するか」
「はい」
それらしい虫とかが飛んでおれば、妖精だと勘違いしてもおかしくないが、昔の人はそこまで想像しなかったかもしれない。そのへんにいくらでもいる虫なら。
山桜の根元が見えるところまで来た。その先は潅木の密度が濃くて、足を入れられない。
しかし、山桜の全体はしっかりと見える。確かに炎のような形に見える。どうして、枝が横へ広がらなかったのかと考えると、不思議だが、下の方は陽当たりが悪いのだろう。
担当編集者は望遠レンズの付いたカメラで、山桜を覗き込む。妖精がおれば、シャッターを切ればいい。
「いるか」
「いませんが、鳥が来ているようです」
「鳥か。重そうじゃあなあ。妖精はトンボのように軽くないとな」
「そうですねえ」
渓谷の端っこ。左右は崖。前方は滝。
「あの滝の裏側に穴が空いていたりしたらいいんですがねえ」
背は高いが岩肌は見えている。そんな穴などない」
「何か、具体的なものが欲しいですねえ」
「こういう場所なら、何か残っておるじゃろ」
「信仰のようなものですね」
「先ほど見た地蔵のようなのが、この近くにあるに違いない」
二人は手分けして、崖下を探した。すると石の台のようなのが見付かった。
「上物はもうないか」
「何か置いていたんでしょうねえ」
「いや、それなら、痕跡が残っておるが、この台、傷がない。上物など最初からなかったのかもしれん」
「じゃ、お供え物などを置く台でしょうか」
妖怪博士は、その台に上がり、座ってみた。正座では痛いが、胡座を組むと、ちょうど座布団ぐらいの広さがある。
「おお、気持ちがいい」
「しかし、妖精とは関係なさそうですねえ」
「最近、言いだしたことだろう」
その台の正面に滝が見える。滝壺は浅そうで、膝ぐらいの高さ。
「こういうところには水神さんとかがあったりしそうだなあ」
「そうですねえ。探してみますか」
「いや、ありそうなものがあっても、ありそうな話しかできん」
「困りましたねえ。妖精もいないし」
「ここに座ってじっとしていると、妖精がウジャウジャ飛び交うのが見えるかもしれん」
「それ、目の中で蚊が飛んでいるあれと同じでしょ」
「そうじゃなあ」
結局、何ともならない取材で、これというのは出てこなかった。
妖精は見付からなかったが、深い森の奥で咲いている山桜の明るさだけは印象に残った。
了
2022年4月1日