小説 川崎サイト

 

玉葱を見た


 今村は通りがかりの小道で、玉葱を見た。道に沿って畑があり、そのひと畝ほどに玉葱。既に収穫できそうな案配。すぐにでも食べられそうな。
 その玉葱を見て、照らし合わせた。記憶と。そこには今まで見た玉葱が記憶されているはずだが、忘れているのもある。その中のどれに近いかを。
 土から玉葱の玉が露出している。当然茎のようなネギのようなのも伸びている。この姿で見る玉葱は店屋で見るものとは違う。玉だけなので。
 だから、そこをカットして、玉箇所だけを見る。
 何をしているのだ。そんなところで。
 しかし、まじまじと見ていたわけではない。見たのは一瞬。数秒。それ以上は見なくてもいいので、その場を去った。
 泥棒でもするつもりか。しかし、玉葱が好物なわけではなく、また持ち去っても大した値段にはならないだろう。それにどこで現金化するかだ。そんな場所は知らないし、やっている行為が丸見えではないか。いかにもの玉葱泥棒。
 そうではなく、玉葱だと認識するのは、それは知っているから。同じものではないし、品種も違うが。
 しかし、一年を通して、今村は玉葱を見ている。スーパーで。
 それでかなりの種類の玉葱を知っている。大きくて高いものから、小さくて安いものまで。球のようなものから、平べったいものまで。だが形はほぼ同じなので、これはそんなに変わった形のものはない。
 むしろ皮の色だ。玉葱の皮。これは有名だ。玉葱は剥き続けると、もう何もなくなることで、よく聞く話だが、皮はせいぜい二枚ぐらい。これを剥いてしまえば、あとは白っぽい肉の箇所だ。実際に食べる場所。そこまでは剥かないだろう。
 それで、玉葱を畑で見たとき、どの玉葱に相当するのかを思い出した。
 するとよくある形でよくある大きさの標準的なもので、これが一番玉葱として思い浮かべたときに出てくる映像だろう。
 だから玉葱があると思っただけで、妙な玉葱とか、変わった玉葱があるとは思わなかった。玉葱一般。
 ただ、玉がまだ青い。そこが違っているが、まだ早いのだろうか。それを差し引けばいい。中には茶色い皮に変わっているのもある。
 これは玉葱を知らない、一度も見たことがない人なら玉葱とは見えないが、知っている人なら誰が見てもそれは玉葱だ。
 玉葱であることが分かればそれでいい。人により見え方が違うなど、細かいことを言い出すと面倒臭いことになる。
 同じ玉葱だが、世の中には二つとして同じ玉葱はない。しかし、そういうのも含めて玉葱といっている。一括りにして。
 本当は自分が知っている玉葱とは少し違うとは言いたい場合でも、ジャガイモと間違わなければ、それでいいのだ。
 それに今村はその程度の関わりしか玉葱にはないので、畑の玉葱を見ても、ああ、玉葱だと思う程度でいいのだろう。
 
   了




2022年5月10日

 

小説 川崎サイト