小説 川崎サイト

 

原因の真の原因


 日々の暮らしの中で、色々と想像することが多々ある。日々の中には仕事も入っている。家の用事や仕事も生活の中に含まれる。同じ人がやっているので。
 想像力というようなたくましい力がなくても、色々と想像はできる。これは、思うという程度だろうか。
 しかし、推測する。憶測する。詮索する。先へのことではなく、起こったことの原因を考えることもあるだろう。歴史的な事件ではない。些細なことであり、ちょっとしたこと。
 ただ些細事が大事に至ることもあるので、油断は出来ないが、いちいち細かいことから大きなことを膨らませているときりがない。忙しいだろう。
 しかし、自然と頭に浮かぶことがある。考える気がなくても、そのことが脳裡に来る。これは自然現象のように、または生理現象のように来てしまうのかもしれない。
 上杉は、ちょっとした些細事の原因は何だったのかと、考えることもある。謎解き。因果関係、等々を探る探偵小説のように。
 別にトリックが施されており、それにかかったわけではないが、詐欺などは、そのタイプのトリックだろう。引っかかったのだ。
 リアル世界では、原因は分かっても、その原因の一番奥にある原因、そのまた原因までは追求しないのが約束。そこまで考える必要がないのだが、その圏外のものが作用しているかもしれない。
 だが、原因の真の原因まで行くと、これは面倒臭いことになる。個々の原因ではなくなるためだ。
 また、色々な法則が働いているのだが、物事がその法則通りだとしても、その法則を裏付けるものはなかったりする。ここは面倒な話だ。それこそ神様でも持ち出さなければ、裏打ちできない。
 上杉は、そういった原理原則、そして法則、因果関係の埒外にあるものを感じることがある。それは日々の暮らしの中でのちょっとしたことでもそうだし、生活全体、人生全体でも。
 これは別に信仰心ではないし、上杉は何処かの信者でもない。だが少しオカルトが入っている。
 それが少しでも見え隠れすれば、まずいので、そのことは他言しない。それに、あくまでもそれ自身も想像だが、想像の埒外があることも知っている。これは想像外なのではなく、次元が違う赤い糸のようなもの。
 ただ、因果関係はない。だからあちら側の赤い糸の端っこなどないので、原因も分からない。因果の糸もないと言うことだ。
 ただ、なにがしかの縁のようなものはあるのだろう。それを具体的には言い表せないが、全てのものは繋がっているのかもしれない。ただ、その繋がり具合が見えない。
 原因は見えるが、原因の真の原因は分からない。
 そういうことを上杉は日常の中で、たまに体験することがある。これが原因だと思っていたことが、違っていたりすることがある。結果はその原因で起こったかのように見えるが、その原因の原因が遠くで糸を操っているのだ。
 これは上杉が想像した絵だが、実際には曖昧模糊としている。はっきりしない。
 人は分かったつもりでいたいだけなのかもしれない。
 
   了



2022年5月18日

 

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