期待と贔屓
期待しているものは、期待通りになることを期待している。それを望んでいる。
そのため、これは期待出来ると思うものは点数が甘いかもしれない。あまり期待していないもの、どうでもいいようなものなら跳ねてしまう点数でも、期待していたものは期待を通したい。そのためか、点数が甘い。
これは期待していたものが、期待通りになったとか、叶ったとかの成果を得たいためだろう。
だから、多少、それを満たしていなくても、何とか期待通りになるよう下駄を履かす。落とすよりも通したいため。その方が気分がいいし、傷を付けない。
特に、これからさらに期待出来るようなものならなおさら。見込み違いではなかったことにしておきたい。
これを贔屓という。ただ、期待をかけるものは最初から贔屓したがっているもので、贔屓出来るものがないよりもある方がいい。
期待出来るので、贔屓にするのか、贔屓したいので期待するのかは、分かりにくい。一緒のことかもしれない。
期待出来るもの、それは善きものだ。善きものは多い方がいい。だから、満たしていなくても、贔屓の下駄で持ち上げる。それはその先、まだまだ期待出来るので、落としたくないため。
これは先々の期待。これも善きもの。だから期待出来るものが多いほど、善きものも多くなる。足りなければ下駄を履かせて善きもにしてしまう。
ただ、期待はいつまでも続かない。あるところで止まってしまうので、上り調子のものの方が先が長いので、そちらへ投資する。
ただし、期待出来るかどうかは、そのもののに本当はかかっている。助けてやれるのは、点数を甘くする程度で、そのものを直接弄れないため。
期待する。それは物や出来事や人なども関わるが、所謂物事に対する期待の中に、本人も入っている。見ているだけではなく、本人が当事者の場合、本人が本人に対し、期待するということもある。本人そのものへの期待ではなく、本人がやる物事に対しての期待。
本人は色々な物事と関わっているので、一つではない。似たようなものを同時にやっている場合もある。
そして、どれが伸びるか、どれがいいかと、そこでも、期待のようなものをする。
本人そのものに対する期待は、これは厳しい。なぜなら一つしかないため。だから評価しなかったりする。代わりがないためだ。
そこはそっとしておいた方がいい。それよりも本人がやっている物事の方を見る方がいい。これは入れ替えることはできるし、期待外れになっても、本人が消えてしまうわけではないので。
だが、本人に対する評価というのは、結構甘いことがある。贔屓にするからだ。
了
2022年6月18日