小説 川崎サイト

 

常識


 世の中には常識がある。そこから外れると面倒臭いことになる。そのため、面倒な人になりたくないので、常識に従う。
 常識というのは、常識とされているところの常識で、特に問題がなければ、それでいい。
 ただ、常識的なことでは難しいことがあり、それを敢えてやる場合、常識は知っているが、その常識を疑え、となる。
 全ての常識を疑えというわけではない。それでは一歩も歩けないだろう。歩ける足があるのに、手で歩くとか。そんな必要はないだろう。
 常識を疑うのは、その方が都合がいいためだ。疑い、別のことを持ってくる。それがよいと思う人が多いと、それがまた常識になる。
 また、常識を疑い、それではないとは思っていても、一応は常識に従っていることもある。その方が楽なため。決してその常識を信じているわけではなく、これはどうかなあ、もう捨てるべき常識ではないかなあとか思いながら。
 だから常識家が常識を全て信じているわけではないはず。表向きと本音が違っていたりするが、その常識がまだまだ通用している場合は、そこから外れると面倒なことになる。
 また、誰もがもう信じていない常識もある。これは罪がないというか、あってもなくてもいいような常識のためだろう。触らなくてもいい。
 一般常識に従い放しでは個性や自分の考えがないように思われるが、それも実際にはあるだろう。ない方がおかしい。人により全て違うためだ。
 しかし個性を発揮し合うと五月蠅いことになる。それでは収拾が付かなくなる。
 個性はあるが、黙っている。自分なりの感想は当然誰にでもあるが、黙っている。これは共有できないことが多いため、言っても仕方がない。個人的すぎると「あ、そう」で終わってしまう。
 常識に縛られている人でも、それは実際行動ではそうだが、内面は縛られていない。実はとんでもない非常識なことを思っていたりする。
 ただ、行動に出ないし、素振りも示さない。ばれるとまずいからだ。
 逆に世間では常識破りと言われている人が、意外と常識人だったりする。だから常識家の持つ非常識さの方が怖かったりする。
 また、自然に身についた常識もある。これはそう教え込まれたりしていたためだろう。学校がそうだ。しかし、それらの一般常識的なことなど身につかないままの場合もある。これは身につかなかった常識だろう。
 その後、大人になってから身についたりするのは、不都合なことが起こるため。そうしないと快適には生きていけない。
 常識を違えるというのが常識になると、これはどうだろう。常識がなくなることになるが、それではやはり不都合があちこちで起こる。
 また、常識が通用しない世界に入ると、たちまち困るだろう。普通の人達の普通の常識が恋しくなるはず。
 いずれも、その人の都合の問題だ。
 
   了
 
  


2022年7月6日

 

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