小説 川崎サイト

 

古き良きもの


 古きを訪ね、今はなき良きものを引き出しに行ったとしても、悪しきものも付いてきたりする。
 今ならそんな苦労はいらないようなこと、それが古き時代ではまだ無理だったのだろう。
 それで美味しいものだけを得に行くつもりが、悪しきものも引き出してしまった。それは切り離せない。古き時代の良いものは、それら悪しきものとも繋がっており、それがなければ成立しなかったりする。
 古き良き時代。それらはある一点に、ドバッと入り込めば、これも同じこと。今なら簡単なことなのに、えらく手間取ったりするし、余計な手間暇が加わる。その手間が好ましいのならいいが、そんなものは一部だろう。
 今はない古き時代の良いもの。それを今、復活させようとすると、周辺までも古臭いもので固めないと再現出来なかったりする。良いところ取りは難しい。
 色々なことがあった末に今に至るのだが、これも波がある。以前よりも悪くなることもあるが、全体の流れは上下があるにせよ、よくなっていくのだろう。
 便利すぎる世の中になると、不便さを懐かしむこともある。ただ、安全な不便さで、暮らし向きに困るような不便さではない。
 しかし、それは余裕のある人だろう。生きているだけで精一杯の人なら、それだけで先ずは充分。
 だから余裕とは、それが出来た上での話。だから趣味趣向のようなもの。センスとかもそうだ。団扇よりも扇子の方がいいという程度。
 だから、古き時代の良きものを取り出すにしても、それはあまり実用的なことではなく、趣味レベルならいい。不便さを楽しむとかは余裕だ。
 古き良きもの。それはただ単に懐かしむだけのことかもしれない。これは楽しみや娯楽、趣味として。
 ただ経験したことのない懐かしさもある。江戸時代の遊びなど、誰も体験していないはずなので、懐かしがるも何もない。ただ、雰囲気としてなら似たような遊びをやった記憶がある。
 過去記憶は、実際には今と同居している。未来もそうだ。だから古き時代に飛ばなくても、いつも一緒にある。
 うんと昔の時代の友人の笑い声や笑い顔などがすっと出てきたりするように。
 
   了

  


2022年7月9日

 

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