小説 川崎サイト

 

一本道


 道は色々とありそうだが、本来は一本道。阿弥陀籤のように枝分かれしているが、同時に別の道には行けない。
 だから太い道、細い道、短い道、長い道などを通過しながら進む。これは一本ではないが、筋の流れとしては一本。一筋。
 テレビは複数の画面を同時に見ることが出来るが、ラジオは同時だと聞き取れない。片方がノイズになる。しかし、音楽をラジオで聞きながら、別のラジオで誰かが話しているのは同時に聴けるが。
 ただ、人の歩みは一回だけで、二度と同じ道を通過出来ない。しかし、一度後退し、同じところをまた歩くということは出来るが、最初に通ったときと二回目とでは違う。
 そのため、同じ道も通る一本道。同じことを繰り返す節回しのようなもの。その道も以前とは違うだろうし、歩いている人も以前とは少し変化があるだろう。だから初めてに近い。その状況でということで。
 阿弥陀籤の道は、枝分かれのときの分岐点で先行きが変わる。方向性があり、それは何となく予測されている。先々、こういう世界があるだろうと。
 阿弥陀籤は線しかないので、ただの通り道で、沿道風景が変わるわけではない。クジのための道なので、そんな演出は必要ではないが、右に寄りすぎているとか、左に寄りすぎているとか、その程度のことは分かる。
 そして辿った道筋が、その人の道で、道ではなく、筋だろう。それがその人の経験になり、その人らしい節回しになるのかどうかは分からないが。
 いつもの道筋がある。段取りのようなものであり、方法といってもいい。いつもやっているようなことだろう。いつの間にかそういう節回しになったような。
 ところが、いつも通りに行かなくなると、別の道、別の筋を選ぶことになる。行けないのだから、当然だろう。
 しかし、その道は以前にも見えていた道で、いつでも入り込めた。しかし、自分の本筋ではないとして、無視していただけ。
 だが、たまにその道に入り込むこともあった。そういう道があることを知っていたので、本来の道、本筋が通れないとき、そこを通るしかない。
 しかし、意外と悪くはなく、これでもいいかと思うようになることもある。これは本筋が通行止めのお陰だ。
 しかし、しばらくすると、本筋が通れるようになった。復活だ。これで、元に戻り、いつも通りの通り道になる。
 これは寄り道しただけのことだが、その寄り道も本筋の内。
 筋は多そうだが、結局は筋は一本。一本道。
 二本も三本もあっても、そのとき通るのはその中の一本。ただ、乗り換えることは出来る。
 また、その存在は知っているが、通ったことのない筋もある。そして一生通ることはない道もあれば、以前に通った懐かしいような道を再び通ることもある。
 
   了





2022年8月26日

 

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