小説 川崎サイト

 

普通の話


 いつも通りを普通というのだろう。しかし、いつもの通り道が普通であるとは限らない。意外な道、あまりない道かもしれないが、そこを毎日通っていると、それに気付かない。
 しかし、周囲の道と比べると、一寸狭いし、路面もガタガタしているし、沿道もごみごみしている。
 だが、これは普通に通れる普通の道なので、普通の中に入るだろう。
 この場合、普通に通る道ではなく、普段通っている道といった方がいい。普通と普段、何となく使い分けている。
 普通着とは言わないが、普段着はある。この段とは何だろう。柔道三段の段だろうか。レベルに近いかもしれない。
 外出着ではなく、普段着。着ている服は普通の柔道着や礼服で、見たことのない服装だと、これは普通ではなくなる。
 普通着はないが、流通し、よく見かける普通の服だろう。
 それで田中は普通の道と言わず、普段通る道と言い換えてみた。普段着はあるが、普段道はないが、それに該当するものはある。それはいつもの、だ。
 いつもの服、いつもの道、こちらの方が使いやすいことに気付く。普段通りにご飯を食べるよりも、いつものようにご飯を食べる。の方が。
 そのご飯の中味。これは飯とおかずだろう。それが普段から食べているものばかりだと、普通の食事。普通の朝食や夕食。
 しかし、普段あまり食べないものが出てくると、普通ではないとは言わないが、いつもとは違う夕食のおかず、となる。しかし、それはおかずだけの話で、夕食を普段通り、いつものように食べるというのは変わらない。おかずが問題ではなく。
 田中は「道理」と「通り」をよく間違える。「お」と「う」の違いだ。
 普段通りとはいうが、普段道理とは言わない。しかし、ワープロのタイプミスで、道理と通りが混ざり合ってしまう。
 では普段道理とは何か。理にかなう道、筋道のことだ。これも道ではないか。普段通る道。筋がある。そこを通れば早いとか。また、車が来ないので道の真ん中を歩けるとか。田中にとり、それは道理にかなっている。
 理屈では筋が通っているのだ。ただ筋目正しき道ではない。
 次ぎに出てくるのは筋だ。筋目の筋。節分の筋。これは区切りでもある。また、長く続く筋目正しい何とかもある。血統がいいとかもある。血筋がいいのだろう。悪い血筋もあるだろうが。
 ものの道理をわきまえた人、とは言うが、ものの通りをわきまえた人とは言わないが、物流の得意な人もいるし、段取りの上手い人もいる。ものの通り道だ。物事を通すのが上手い人。
 田中は普段から普通にそういうことを考えているわけではない。それが普通だろう。
 
   了


 
 


2022年9月2日

 

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