蟻文字の手帳
秋の初めを孟秋とも言うが、そんな言葉を使う人などほとんどいないだろう。始めて聞いたり見る漢字かもしれない。
しかし、孟という字は見覚えがある。孟子の孟だ。その孟ではなく、猛ならく見る漢字。日常の中で使っている。猛暑、猛獣とか、猛烈な風とか。
孟は最初のとか、初めてのとかで使われるらしいが、それらは辞書を見て、初めて分かったりする。
長男を孟子とは言わないだろうが、初めての子、などでも使われるらしい。最初の人でもいい。
その孟秋(もうしゅう)。植田は上司から初めて聞いた。季節的には今頃のことらしい。秋に入って最初の一ヶ月ほどを指すようだ。
しかし、そういう問題ではなく、なぜ上司が孟秋などという言葉を簡単に言ったのだろうかと、植田は気になった。知識を誇りたそうな人ではないし、それほど賢そうな人でもない。平凡な人。
どこか弱々しく、頼りなげな人。だから年の割にはまだ植田の上司で、ただの係長。部下は二人しかいない。
それで、植田は聞いてみた。すると、電子辞書を見ていて、目に入ったらしい。それで、使っただけだと。
普通、秋に入った月を孟秋などと気楽に使う人は少ないだろう。しかも、会社での挨拶程度の言葉のやり取りで。
猛暑なら分かる。ケモノが付いているので、孟暑とは違うが。モウショがあるのならモウシュウもあるのかもしれないと、植田は錯覚した。猛烈な秋。しかし、猛暑は温度。猛烈な秋の気温は何度だろう。秋にしては暑いので、モウシュウというにしても、そんな言葉があるのなら、何処かで聞いているはず。
上司には呑気そうなところがあり、少しとぼけたところがある。文系の人らしい。休憩の時や、仕事中も、こっそりと本を読んでいるのを見たことがある。小説だ。難しい本ではない。
そして小さな文字、これは蟻のような文字だが、手帳にびっしりとその蟻で埋まっている。上司が書いたメモではなく、小説なのだ。
植田は、その手帳を盗み見したがすぐに目を逸らせた。私小説だ。他人の便所の秘密を見た思い。
仕事中も、メモを取ったりメモを見るような仕草をしながら、私小説の続きを書いているようだ。最初は、手帳なので、仕事で使っていると思っていたのだが、メモにしては長文。一行が長すぎる。それに改行なしで蟻がいる。
植田は、この上司の部下でよかったなあ、と何となく思った。
了
2022年9月9日