フィクションとノンフィクション
想像上のものでも、その人にとってはそれもまた現実。当然フィクションも、お伽噺でも、伝説でも。また世の中の常識とされているものも、その実体は知らなくてもあるように思われる。
しかし、現実と想像上のものとは区別出来る。そうでないと危ないだろう。ただ、その区切りの線が曖昧なものも多数ある。当然、現実側のものだと思っていたら、架空だったりする。そんな現実は存在しなかったような。
これは現実も疑わしいのだが、それを疑い出すと、身動きが取れなくなったりする。
植田は現実と非現実。この非現実は、現実ではないという意味だが、その区別はいちいちやっていないが、想像上のものをたまに現実の中に取り入れる。ただし、それは架空のものだと分かっているので、利用しているようなもの。ないはずのものがあるようなものなのだが、それがある方が話を進めやすいためだ。
これはノンフィクションに少しだけ、フィクションを含めるようなもの。そうでないと繋がりが悪いので、嘘を入れるのは繋ぎをよくするため。
当然、そういう嘘混じりのことを人に言うわけではない。あくまでも内部処理。
嘘も現実も、その人の頭の中では存在しているのだから、そういう意味ではこれもまた現実だが、嘘であることは本人が一番よく知っている。その嘘をつくのは方便のようなもの。その方が自分にとっては分かりやすい物語が綴れるため。
だから、この方法は植田専用。人は嘘ほど信じやすいという。嘘だと分かっているので、安心して信じられる。これを信じるというのかどうかは曖昧だが。
逆に本当のことは信じにくい。疑うためだ。現実は嘘のように単純ではなく、複雑。だからそれが本当かどうかはすぐには信じがたいのだ。
それは現実のことなのだが、あとで嘘だったと分かることもある。また、嘘でした。違いましたと。その後、訂正されるかもしれない。
植田の頭の中では、そういうことが常に起こっているのだが、嘘の方が乗りやすい。それは嘘という現実のためだ。嘘も現実なのだ。そうでないと立ち現れないだろう。嘘があるという現実。
要するに植田の頭の中では嘘と真が混在し、絡み合い、そして影響し続けている。現実の変化で嘘も変わり、嘘を変えると、現実も変わる。
それで植田は特別な何かをやっているわけではなく、平々凡々と暮らしている。普通に。
了
2022年9月18日