小説 川崎サイト

 

ポプラ


 駅前、駅までの道。それはかなりの数があるだろう。駅の数だけ駅までの道があり、駅の数だけ駅前の風景がある。ただの土まんじゅうのような駅もあれば、ビル内に入り込み、何処にホームがあるのか分からない駅もある。
 地下鉄の駅は何処も似た構造で、似たような絵なので、居眠りしていて、駅に着いた時、何処の駅なのかが分からなかったりする。
 そして駅前風景は地上にあり、上がってみなければ分からない。おそらく道路の下から這い上がってきたのだろう。ただの道沿いの風景しかなかったりするが、地下鉄の大きな駅などは、改札を抜けても地上に出るには迷路抜けのようなことにもなる。駅という雰囲気は改札前だけで、あとはただの地下街だったりする。
 植田は住宅地の中の道を歩きながら、そんなことを思った。駅までの道だ。植田にとっての駅までの道で、これは多数ある中の一つ。
 それに家からの道筋となると、さらに数は増えるだろう。だから、玄関を出て、前の道に出てから駅までの道筋は植田だけの道になるが、すぐに他の人の道筋と合流する。
 また植田にとっての駅とは、ある鉄道の駅で、電車の形や色も違うだろう。この路線に子供の頃から暮らしていると、電車の原型は、その電車になったりするのだが、その車両も子供の頃とは違う形になっている。
 車両も新しくなり、座席も窓やドアやつり革も変わる。だから、原型にはなりにくいのだが、電車や鉄道の原型のようなものは確かに残っている。
 さて、駅までの道はどうか。これも新道が出来たり、拡張されたり、別の道が出来て信号が出来たりと、ここも数十年規模で考えると、様変わりしているはず。だが、よく通る道なので、徐々の変化をそれなりに受け入れ、慣れてきている。
 目印になっていた高いポプラの木が切られてなくなっているのだが、しばらくすると、ポプラなしの風景に慣れてしまい、そこにポプラがあったことも忘れてしまう。
 忘却とは忘れ去ることなり、と、そのままの言葉だが、まさにそのままなのだ。忘れるのだ。忘れると脚が速い。しかし、消えてなくなるわけではなく、たまにそれをふっと何かの連想で、出てくることがある。
 すると、ポプラの木が出てくる。写真や動画で写したほどの鮮明さはないが、瞼の裏に浮かぶ。しっかりとは結像していないのだが、一瞬、さっと見え続けたりするが、すぐに消えてしまったりする。
 そして浮かぶのはポプラだけではなく、その横を歩いている自分ではない。自分は見ている本人なのだが、昔の映画のように、ポプラと当時に植田が見えることもある。しかし、ではそれを見ているのは誰か。当然自分だ。
 ここは作っているのではないかと、植田は考える。子供の時代の自分、後ろ姿なら曖昧だが、正面だとそんな絵は体験した覚えはない。だから記憶にない。ポプラの木の横で撮した子供の頃の写真でもあるのなら、それが浮かぶかもしれないが。
 どちらにしても記憶の中での映像で、ポプラの映像が浮かび上がるだけで精一杯で、その周辺となると、無理かもしれない。
 植田はそんなことを思いながら、ふと目の前を見ると、そのポプラがあったであろう場所に差し掛かった。そして念を込めて、ポプラを思い浮かべようと絞り出したが、出てこなかった。
 近すぎたのかもしれない。
 そして幻聴ではないが、ポプラ離ればなれになろうとも、という青春歌謡の一節が飛び出した。
 
   了

 


2022年9月24日

 

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