小説 川崎サイト

 

狙う

 
 狙っているものがその通りだと、それだけでも満足を得る。これは対象に対する満足ではなく、狙いが当たっていたことによる本人の満足度。
 だから対象が優れているわけでも、いいものでなくても、狙いがあるかどうかだ。そのため、狙い通りにいって欲しいという下駄を履かせることになるが。
 狙わないで、その対象と接した場合、ただの平凡なものでしかなかったりする。
 狙いが外れてくれると困る。本当はスカでも、それがアタリのように解釈したくなる。それは選択眼がなかったことに跳ね返ってくるため。
 たとえば広告と実際とは違う。そこは読み取るだろう。そして広告の方に引っ張られると、期待外れのスカを引くことになる。広告以下のため。
 広告とはそんなものだが、その中に、それほど期待を持たせるような広告ではないのに、実際のものは広告よりも良かったりすることもある。
 広告では、そうなっているが、実際にはそれを割り引いて考えるので、実際のものが広告以下でも、そんなものだと納得する。
 しかし、広告からかなりかけ離れていると、これは納得出来ない。当然だろう。ただ、ものは言いようで、宣伝文句も曖昧だったりする。
 決まり切った宣伝文句、その通りである場合もあるので、捻って読み取ったり、深読みしない方が良いこともある。本当にその通りだったりするので。
 それよりも、全体から見た、そのものというのがあり、流れの中の、そのものもある。風潮のようなもの、全体の流れ。そのもの単独ではなく、別のものとの関係を考えると、あるものが狙っているものに近いのではないかと、勘で分かる。
 この勘は外れることが多い。確かな証拠はない。根拠もない。しかし全体の中で、今、それを見ている時、これがいいのではないかというのが浮かび上がってくる。
 ただし、狙っていたものだという保証はない。裏付けはない。そのため、それは冒険。失敗し、期待外れで終わる可能性の方が高い。
 この狙いというのは、最後は勘になったりする。勘が先に来て、理屈はあと。ただ、勘が外れていると、理屈も崩れる。
 親亀こけたら皆こけた状態。
 
   了



2022年10月30日

 

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