ある進化
川崎ゆきお
郊外のマンションに引っ越した私は、初めての朝を迎えた。大事な朝というか記念すべき朝だった。 それまでは繁華街の裏にあるマンションで暮らしていた。 交通の便が良いので仕事場として向いていたが、雑居ビルに囲まれた場所は殺伐としており、緑と土の匂いのする場所へ引っ越したいと願っていた。 それに一時ほどの仕事はなく、都心に出る機会も減っていた。 そのマンションのオーナーは農家で、まだ周囲に田畑が広がり、農村の面影を残していた。 記念すべき朝、私は目覚めると同時に喫茶店へ向かった。 引っ越し中に見かけた喫茶店で、マンションからも近く、徒歩で往復すれば、朝の程よい散歩になる。 その最初の朝、私は喫茶店のドアを開けた。 開店時間は七時で、今、それを少し過ぎた程度だ。 その程度にもかかわらず、ほぼ満席だった。 私は一つだけ空いているテーブルに着いた。 そのとき、全員からの視線を感じた。 中年のママさんが注文を取りに来た。 私はモーニングセットのAを選択した。 一番安いセットで、トーストとゆで卵が付く。 私はここに座ってはいけないのではないかと思った。 空いているテーブルはここだけで、常連客がすぐにでも入って来るのではないかと推測したからだ。 その証拠に、全員が私を見ているように思う。 その席は指定席で、いつも決まった人が座る場所で、朝のこの結界を破ることは許さん……と言われているような気がした。 店内はドアを開けないと中が見えない。まさかビッシリと客がテーブルを満たしているとは思わなかったのだ。 もし、それが分かっていれば、混んでるいと思い、入らなかった。 近所の人しか来ない喫茶店は、人の流れが決まっている。朝のこの時間、偶然来るような見知らぬ通行人などいないのだ。 中年のママさんは、そこそこの美形で、過度に洒落た服装をしている。スナックのママ並だ。 きっと客たちの視線が彼女を磨いたのかもしれない。 私は老人夫婦がやっていそうな、こじんまりとした喫茶店を期待していた。 これでは繁華街のスナックと変わらない。 常連客にとり、ママの服装はそれなりに見えるかもしれないが、第三者がいきなり路上でその姿を見れば、大きく引くはずだ。 その場所でしか通用しない関係があり、この店はそれに陥っていた。 私はこの席に常連客がいつ来るか、いつ来るかと脅えながら、店内を見渡した。 もう二度と来ることはないと思い、記憶に刻みたかったのだ。 店内に飾られている色紙や、観光土産のようなお面とかは、分かってる人には自然な飾りなのだが、そうではない私から見れば風通しの悪い密室劇を見る思いだ。 私はこれから、この町内に住む。 おそらく、ここの常連客と何処かで合うことになるだろう。 彼らに対し、特別な感情はない。極めて普通の人々であり、私以上に善良な小市民だろう。 しかし、ここは臭いのだ。 この臭さは私の好むものではなく、その匂いの風下に立つ勇気を持ち合わせていないし、それを持つ趣味性も必要性もない。 ある動物が独自の進化を辿るように、住宅地の中にある何でもない喫茶店が、妙な色合いの進化を遂げたのだ。 もしかすると、ここは夕方からスナックになるのではないか。それならこの雰囲気は理解出来る。 私はメニューを開いた。 純喫茶となっており、アルコール類は置いていない。 純喫茶でもビールを置いている店はある。 それより、わざわざ純喫茶などと名乗るこの店は何だろう。 純喫茶が流行っていた時代に出来た店とは思えない。 私は急いでトーストを齧り、ゆで卵を喉に詰まらせながら、喉仏を波打たせ、残ったアイスコーヒーを流し込んで、店を出た。 数歩歩き、振り返り、店を見た。 実に何でもない淡泊な店構えで、気楽に立ち寄れる雰囲気だ。 しかし、その内部は独自の進化を遂げた異臭を放つ世界なのだ。 私は朝から縁起の悪いものを見たと思い、口直しの意味で駅前のファストフード店へと向かった。 了 2004年12月14日 |