小説 川崎サイト

 

屈の話

 
 やることがないと退屈する。退屈するので、何かをやる。しかし、何かをやっていても退屈してくる。何が違うのか、それは刺激の大小かもしれない。それと楽しさの大小。
 それをやっていると楽しいのは刺激がまだ残っているから。まだまだ大きな刺激があったときならもっと楽しいだろう。
 やることがあり、刺激もまずまずあると、それは楽しいとまではいかないが、退屈しているよりもまし。
 そのネタは地味なのが多い。刺激は少ないが、それなりにあり、長持ちする。また、やることというより、やらないといけないことなら、刺激の引っ張りも楽しさを求めてもいないだろう。ここでは退屈しても、逃げられない。絶対にやらないといけないことなので。
 しかし、出来るだけ楽しくやりたいものだ。どうせやるのなら。
 刺激物は飽きやすい。刺激の度合いが大きいほど覚めるときはすっ温度が下がる。その後、見向きもしないとか。
 また、刺激が強いもので、楽しいものなら、そこそこ長続きすることもある。これは減り続けるのだが、なかなかチビないため。
 疋田は普段やっていることを今日も繰り返しやっている。これがベースで、これはやらないといけないこと。他にも方法はあるし、また違うものに置き換えてもいいのだが、そこまでしないといけないほど苦しいことではない。
 要するに慣れてしまい、習慣になると、それをやらないと何となく落ち着かない。体も頭も勝手に動いてしまう。そこでやめようかと思うチャンスはあるのだが、そう思わない限り、勝手に動き出している。
 習慣となり、同じことをやっているように見えても、結構改良したり、順番を変えたりしている。練り上げている。
 だから長い間やっていることは完成度が高い。その内容ではなく、そのやり方が。
 これはこれで、うまくいったりいかなかったりするので、それなりの刺激はある。上手くいけば楽しい。この方法の方がよかったのだと。
 地味で大人しいことの方が長持ちし、長続きする。これは疋田の性格と合っているためだろう。生まれつきのもので、その後の影響とかではない。
 猫の子が五匹産まれたとする。最初から性格の違いがある。これを難しくいえば先天的、ア・プリオリというらしい。
 疋田には当てはまるが、他の人には当てはまらないかもしれない。産まれた猫の子も産まれた時から冒険的な子もいるし、大人しい子もいる。
 しかし、地味で大人しいタイプでも、その逆の生き方をしている場合もある。そのあと獲得したのだろう。
 そのため人前にいるときと、一人になった時とではがらりと変わったりする。素に戻ったように。
 疋田はどっちだろうかと考えたが、どうでもいいことで、そんなことが分かったとしても、別に何も起こらないし、方針を変える必要もなかったりするので、それなりに今のことに対応させていけばいいと考えてしまう。
 また理屈よりも退屈しないで過ごせるだけでも、いいだろう。どちらにしても屈の話だ。
 
   了

 
 
 


2022年11月30日

 

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