小説 川崎サイト

 

物知り

 
 水無月村に物知りがいる。記憶がいいのだろう。しかし、知らないことは記憶録出来ないので、物知りと言っても限りがある。
 若殿の教育係のような重臣が、その噂を聞き、聞きに行った。噂を聞きに行ったのではなく、若殿の教育係として来てもらえるかどうかを。
 その重臣、身分は高いが、お守り役のようなもの。特に教育係という役職があるわけではないが、一通りのことはお抱えの学者が教えている。しかし、それだけでは見聞が拡がらない。それに、大事な跡取りなので、城内から出ることは希。
 それで村暮らしだが、諸国を見て回ったことのある水無月村の物知りに興味を抱いたのだ。身元がはっきりしている。
 水無月村の大庄屋の三男。家柄は百姓をしているが、田畑を耕しているわけではない。このあたりの豪族の末裔だ。その三男は暇なので、塾などを開き、子供に読み書きなどを教えている。
 さて、その重臣、物知りを訪ねると、ここには住んでいなく、寺の別院に住んでいる。この大庄屋でその寺も持っているようなもの。だから遠慮なく別院で暮らしている。ここには書物があるためだ。いわば寺の書庫のような施設。
 塾は庄屋邸内にあるので、その物知りは、そこに通っている。
 そして、重臣と物知りとの対面。物知りは思ったよりも若い。
「何でもご存じの方と聞きましたがな」
「いえいえ、知っていることしか知りません」
「ああなるほど、実にその通り、知らないことまでは知り得ませんわなあ」
「はい、仰る通り。多少物覚えがいいので、忘れないだけです。でも今までのことを全部覚えているわけではありませんよ」
「若殿の教育係なんじゃがのう」
「私は学者でもありませんし、武家でもありません。僧侶でも。ただの百姓家の三男坊」
「庄屋の家は元々が武家だと聞いておりますし、また、ただの百姓ではなく、大庄屋。身分は何とでも工夫しますので、その心配はご無用」
「しかし、世間で噂されているほどの物知りではありませんので、期待外れかと」
「いえいえ、物知りは看板で結構です。あなたが諸国を巡っていた頃のお話などをして頂くだけで結構です」
「それなら、他にもそれにふさわしい方々がおられるでしょう」
「他の家臣、わしもそうじゃが、紐付きでなあ」
「紐」
「手繰ると、面倒なものが出てくる」
「ああ、背景のことですか」
「はい」
「私は百姓家の子なので、大丈夫だと」
「若君の教育係と言うよりも側近です。わしもそうじゃが、若があとを継いだとき、力が振るえます。わしは年なので、もう無理じゃがな」
「私はそんな大それたことなど考えないでしょう。そういうことが面倒なので、余計な心配はしないで下さい。それに引き受けるかどうかは、まだ決めていません。今、始めて、その話を聞いたのですから、しばらく考えさせてください」
「世間にはこういうこともある。ああいうこともあるということを話してもらえればいいだけです」
「なぜ、私なのですか」
「近在にも知られた物知りだと聞いたからです」
「ですから、知っていることしか知りません。一寸記憶がいいだけで、覚えていることが多いだけです」
「そんなものは、どうでもいいのです。実は三島殿の息子がその役になろうとしています」
「三島様とは」
「お城を牛耳っておる人ですよ。それを避けねばなりません」
「ああ、そういうことなのですか。じゃ、物知りなどは関係がないと」
「看板として必要です。城下でもあなたの噂は拡がっています。教育係には丁度だと」
「分かりました。世間によくある話です」
「引き受けてもらえるかな」
「考えておきます」
「そうか」
 その老人が再び別院を訪れたときは既にその物知り、旅に出たあとだった。
 世間智も備わっていたのだろう。
 
   了



2022年12月5日

 

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