小説 川崎サイト

 

手順

 
 手順というのがある。これは意識しなくても、勝手にやっていることがある。
 手順なので、順番が違うと、出来なかったりする。そこは意識的になる。ただ手を動かす程度から体そのものを動かすときも、これは通用する。歩いたり走ったりだろう。
 走るのは普段とは違うし、一寸違うので、ここは急ぐので走るべきだと思い、それで走り出すのだが、その前に急いでいることが頭にあるので、足の方が先に動くのかもしれない。
 当然歩いているときも走っているときも、いちいち歩幅とか、右足を出して、とかは考えなくてもいい。手順ではなく足順が決まっているので、これは勝手に歩いているし、勝手に走っている。
 その途中で歩くのをやめようかと中断することも出来る。何も思わなければ目的地まで歩き続けるだろう。
 だから、何か思うと勝手に手足が止まる。ここで止まった方がいいということがあるのだろうが、これは滅多にない。歩きだしたのだから、あるところ、たとえば信号があるところや交差点などで一度止まったりするが。
 別に歩いていても支障がなければ歩き続ける。疲れると歩幅が狭くなるが、これも足の方が先だ。それに息がしんどくなるし、足も重くなるため。
 また歩き方や、歩いている時の姿勢とか、視線とか、腕の振り方などを意識し出すと、動きがぎこちなくなる。歩き方を意識するためだろう。
 これは暇なのかもしれない。歩き方が悪いのではないかと考えたりするのは。
 しかし、それを意識していないときは、いつもの歩き癖に戻っていたりする。こちらの方がその人にとって都合のいい歩き方で、一番楽な歩き方のため。
 自然体というのもあるが、これは意識的ではないという程度だろうか。その人らしい歩き方になっている。体が勝手に微調整し、その歩き方になっている。
 ただし、それは変化する。しかしベースになっている歩き癖というのもあるはず。そこから少し変化しているが。
 これは足の形とか、足の裏の形でも違ってくる。膝とか腰の使い方もあり、負担がかかりそうだと、楽な歩き方になっていく。
 敢えて綺麗な歩き方を真似なくてもいい。ここも体に任せておけばいい。別に英知を働かせるようなネタではないので。
 ただ、武芸とかをやっている人なら、体の動かし方に意識的になるだろう。これは目的があるためだ。ただ日常の中で歩く程度なら、そこまで必要ではない。
 偉い人に呼ばれ、此方へ来いと言われたとき、ゆったりとは行かないだろう。それなりの早さで、すっと行く。これは態度を見られているためで、そこは意識的になる。ただの移動ではない。
 移動の仕方がゆっくりだと、誤解される。ただ、後輩に呼ばれたときは、のっそりと、ゆっくりと行ってもいい。後輩なら、そちらから来いとばかりに。だから、後輩はその場から離れられない状態のときだろう。
 ただ、緊急ごとだと、また別だ。
 偉い人に呼ばれたとき、逆に猛スピードで移動すると、逆におかしい。意識しすぎだ。
 意識的と言うよりも、そういうパターンが出来ている。そして目的により早さを使い分けているのかもしれない。
 勝手に手が動く用事でも、順番を変えたり、またいつもと違う場所だったりすると、次は何をするのかが一瞬見えなることもある。
 
   了



2022年12月6日

 

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