卵焼き
川崎ゆきお
何の変哲もない大衆食堂が市場の裏にある。飯屋だ。
坂田は久しぶりにその店に入った。少年時代からある店で、白髪になった今も、まだ忘れていないのだ。
「残っているのは、この店だけかな」
坂田の少年時代、外食と言えば、この種の大衆食堂だった。食堂でご飯を食べることは贅沢で、滅多に連れてきてもらえなかった。
観光地ならいざ知らず、近くの商店街にある店では入る理由がないのだ。
その理由とは、日常とは異なる場合だ。特別な日なのだ。
そして、坂田は一度だけ入った。通院の帰り道で、病院へ行ったご褒美だった。
そこで食べた卵焼きが、家の卵焼きとは明らかに違っていた。出し巻きである。
坂田の少年時代、卵は贅沢品だった。
卵焼きはその場で店の人が焼いてくれる。作り置きではないので、焼きたてだ。もう、それだけでも美味しい。
この店に入るのは卵焼きを食べるのが目的だ。
それほど美味しいのなら、しょっちゅう来ればいいのだが、そうはいかない。
それではあの卵焼きに慣れてしまうからだ。
「さて、、今日は何を食べようか」と、思案の時、その大衆食堂が候補に上がるのだが、決定するのを避けてきた。大事なものを使いたくなかったのだ。
その日坂田は三年ぶりに入った。凄いため方だ。
美味しいものは乱用せず、大事に大事に使っているのだ。
たかが卵焼きなのだが、絶対に美味しい食べ物は滅多にない。大事に仕舞っておくからこそ美味しいのだ。
あれから三年経過したが、店内の変化は少ない。ほとんど少年時代と同じだが、テーブルとかは何度も入れ替えているはずだ。
隅っこに酒ビンが積み上げられているのもこの店らしい。
坂田は、ガラスケースを開け、カブラ漬けを取り出す。
「何にしましょう」
もう娘の年ではないが、それほど老けていない店の人が調理場から出て来て、声をかける。
「めしの小と、卵、焼いて」
「卵焼きですね」
「ああ」
そこへ、杖を手にした老婆が調理場からのっそり出て来た。そしてゆっくりゆっくり歩いて店から出て行った。
坂田は割り箸で、出て来た卵焼きを軽く押さえた。
「違う」
口に入れるが、やはり違っていた。
坂田にとっての、卵焼き名人は引退していたのである。
了
2007年11月17日