小説 川崎サイト

 

色即是空

 
 色即是空。よく知られた言葉だ。空とか無とかも。
 無我とかもある。そのときの我とは自分のことだが、無我の境地に入ったことは、誰が知るのだろう。我がなくなっているのだから。感じる本体がないようなもの。だから我が無いと、自分がどうなっているのかも分からない。
 我がないのだから、人なのか、動物なのか、植物なのかも分からない。
 そこで空というのがあるらしい。青空などの空ではなく、空っぽ。何も入っていない。だから無いのだ。
 無いが有ると言えば、無いという言葉も有るという言葉も死んでしまう。無いから無い。有るから有るで、それ以上捻ると、ややこしい。
 また裏表とかもある。無いと有るは裏表と言われても同時に裏と表を見ることは出来ない。
 また本当はないのだが、何かの縁でたまたまあり、それがずっとあるように見えるが、たまたまのたまが外れるとなくなってしまう。
 これもややこしい。
 無我もそうだ。今、無我だというのは誰が見ているのだろう。我ではないか。
 色即是空の色とは、色々な物や物事で普段から見たり聞いたりしているものだろう。それがなければ何も見えないし、日常生活さえ送れない。
 目の前にあるようなこと色々なことや物はないのだよと言われても、無いで済ませるわけにはいかないだろう。
 だからそういう単純な意味ではなく、深い意味があるようだ。
 物というのはあるように見えているだけで、感じているだけかもしれないが、それを見ている人が問題だ。誰が感じているのか。
 また、物の最小単位までいってしまうと、スカスカで有ったり無かったりするらしい。そんなことを考えながらご飯を食べているわけではい。
 縁起、因果もよくあるパターンかもしれない。全てのことには原因があるとしても、原因の原因は何処までも続いていたりしそうだ。
 今朝は食べていないので、昼はお腹がすいたなどなら分かりやすい。せいぜいその程度の射程範囲。それ以上となると、実用性がないのだろう。生きている上では。
 そして我というもの。つまり自分のことだが、これがないとなれば、不便だろう。
 色即是空、無我、などは不便ではなく、方便だ。
 
   了

 

 


2022年12月28日

 

小説 川崎サイト