小説 川崎サイト

 

大晦日の夕焼け

 
 日が暮れようとしている。今年最後の夕焼け。それなりに見事だ。雲が良い場所にあり、陽はその後ろ側なので、見ても眩しくはない。丁度の案配で雲がそこにある。これは偶然だ。その雲、少し長いが幅は僅か。その僅かな盾で陽を防いでいる。
 そんな気は雲にはない。周囲を見渡すと他の雲は遠くにある。まるで坂田のために、日除けとなってくれているのか。
 しかし、その角度から見る場所はそれなりにあり、その下の人は多いだろう。ただ、それを見ている人は何人いるのだろう。夕焼けを背に移動していると、そんなことなど目に入らない。
 落ち行く太陽。次ぎに出てくるのは初日の出という立派な名が付き、拝む人もいる。それを目的に山に登り、御来光を浴びるのだろう。寒い時期なので日向ぼっこではない。それに早朝。これは寒い上に、高い山ならもっと寒い。
 大晦日の夕方、坂田は太陽を見るのではなく、太陽のある場所を見ている。光の線が走り、昔のマッチのラベルの日の出のよう。
 実際には夕焼けの太陽は眩しくて直視出来ない。だから見ようと思っても見えない。ただ薄い雲がフィルターになり、カーテンのようになり、その丸さや輪郭が分かるかもしれないが。
 それよりも、太陽がそこにあることは疑いようのないことで、二つとしてないし、また錯覚ではない。空のそんなところに発光物など浮かべるような真似はしないだろう。
 だから雲の後ろに太陽は確実にいる。それに輝きも徐々に落ちてきているし、雲はそのままでも太陽は下へ下へと進んでいるようで、そのうち雲からはみ出るだろう。
 雲の中に太陽がいるわけではない。もっともっと遠くだ。
 初日の出ではなく、仕舞い日の入りを眺める風習はないのだろうか。神社でも初詣があれば仕舞い詣でもある。
 だが夕日を愛でるとか、夕焼けを好きな人はいる。そして決まって同じ場所から毎夕拝んでいるかもしれない。この場合は太陽ではなく、お天道様となるが、これは朝日の太陽で、夕方の太陽は元気がないので、また別の言い方があるだろう。
 しかし落日の太陽。これはテンション的には低い。終わるわけなので。日の出の方が勢いがある。
 坂田は日の出の朝焼けと夕日の夕焼けのどちらが好みなのかを考えてみたが、朝日が昇るころは寝ているので、眺めるのは夕日ばかり。
 ただ、目に入るだけで、絵として見ているだけ。しかし、大晦日の夕日は少し違う。一年という規模が入っているのか、太陽の凄さを改めて考える。
 
   了

 
 


 


2023年1月3日

 

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