小説 川崎サイト

 

父帰る

 
 敢えて遠ざけていたものがある。不満があるため、別のものに移ったのだろう。その別のものもまた同じ運命を辿り、さらに別のものに置き換えられる。
 さらに次の別のものに。そうなると、最初のものとはもう様変わりしていたりする。または同じタイプでも、最初のものとはやはり違う。
 そして最初のものからは遠いところへ行ってしまったのが、父帰るではないが、最初のものを急に思い出し、そこへ戻ることがある。
 これは遠ざけていた頃に比べると、もう認識が変わっており、これがベストだったのではないかと、やっと気付く。
 要するに見る目が違っているため、最初のものが蘇ったことになる。しかし、それを敬遠していたのだから、不満があったのだろう。それで満足を得るものを探し、そして移動したのだが、その間に得たものはかなりある。
 目が肥えるというのはそういう経験があってのことで、目に肥やしをあてがえば目がよくなるわけではなく、実体験がないと、身に応えない。要するに実感。
 そういう実感を経た後に、最初のものを見た時、これは凄いものだと感心したりする。それだけを見ていては分からなかったこと。
 では最初のものとはなんだろう。それ以前にも何かあったのかもしれないが、意識し始めたのは、その最初にものから。それ以前のものもあるが、その意識はなかった。
 そう思うようになってから出てきたのが最初のもの。それまでの知識や体験で、それが現れた。これだろうと。
 しかし、違っているかもしれないと思い、ウロウロしていたようなもの。
 ウロウロしている時に得た実感というのは、やはり最初にものが良かったでしょ、というのを説得するようなもの。
 それ以上のものが見付からないので、元に戻るしかない。その戻すための説得のためのウロウロだったことになる。
 こういうことは色々なシーンであるので、似たパターンは多い。ただ、それを先読みしても実感が伴わないので、説得力がない。
 子供の頃、思い描いていたものがある。大人になると消えてしまう。
 それでも、何かが残っており、あの頃に思っていたことが正しかったのではないかと、ふと思うことがある。何の知識もない子供時代。だが、直感のようなもので、それを感じていたのかもしれない。
 
   了

 



2023年1月10日

 

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