小説 川崎サイト

 

楽しみ

 
 先々の楽しみは向こうからやって来ることもあるが、自分で探さないとやって来ないこともある。
 そのため、何らかのアンテナを立て、楽しみとなるものを待ち受けることになる。
 これは自然にやっているだろう。しかし、疎かにすると、もうその先々の楽しみも見えて来ないし、やって来ない。
 しかし、予定していた楽しみが来ているときも、すぐに実行するのをためらう場合がある。今、その時ではないとか、その気分にはならないとかで。
 それで放置している楽しみネタもある。そのうち、とうが立ち、賞味期限が切れるかもしれない。
 そして実行しやすい楽しみは、ほどほどのもので、一寸した楽しみだろうか。これなら気楽に楽しめる。大作ではなく。
 大作は実行しにくい。岸和田はそれに気付いた。これは楽しいことであり、楽しみなので、是が非でもやらないといけないことではない。
 またそれはおまけのような行為で、しなくても誰も困らない。岸和田自身も。しかし、そこに楽しいことがあるのは確かで、それを実行しないのは惜しい。
 また、大作だけに、それをやってしまうと、当分もう大作は来ないだろう。だから大作の扱いは慎重になる。
 辛いことを実行するのもしんどいが、楽しいことを実行するのもそれなりにしんどい面がある。
 また、確実に楽しいものであるかどうかは微妙なところ。タイミングが悪ければ、なぜか虚しい。
 先々の楽しみになると思っていた頃がピークだったのかもしれない。それが来ると、待ってましたとなる。
 すぐに実行すればピークはまだ去っていない。後回しにしたり、放置すると、ピークが去ることもある。逆に忘れた頃に実行すると、思っていた以上によかったりすることもあるが。
 また、楽しいことは祭りのようなもので、祭りの後の虚しさというのがある。祭りをしなければ、そんな心境にはならない。これはリスクではない。
 また、祭りの後、虚しさではなく楽しさだけが尾を引き、また似たような祭りをやろうと次のを探すが、待つことになる。いい余韻だ。
 しかし、連日の祭りは過剰。たまにだからいい。その、たまの間隔は決まっていない。そろそろかなという程度だろうか。
 岸和田はさらに考える。それは楽しむことに対する罪悪感のようなもの。時期的にもそんなことをして楽しんでいる場合かとなることもある。
 ただ、手放しで楽しめる状況というのはそれほど多くはない。受け皿の方に問題があり、楽しめない場合だ。そういうとき、無理に楽しんでも、結構虚しいもの。
 楽しむのも難しいものだと、岸和田は感じた。
 
   了

 

 


 


2023年1月16日

 

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