小説 川崎サイト

 

喜怒哀楽

 
 快と不快がある。不快でなければ普通。快適だと快に近い。快寄りだ。気持ちがいい。
 快も不快もそれほど感じないのがいいだろう。今、気持ちが良いか悪いかなど考えていない状態。また感じていない状態。普通の状態。
 幸せと不幸せがある。これも不幸せでなければ幸せかとなるが、そうではなく、幸せも不幸も感じていないとき。こういうものはいちいち確認していない。
 快に走り過ぎると、不快側に出てしまったりしそうだが、その走り始めは快適だろう。まだ走りすぎではなく、行きすぎではなく、まだ過剰な気持ちよさではないので。
 それよりも、気持ちのいいことは良いことだ。それに対しての戒めもあるが、気持ちの悪いことに走る人は希だろう。
 これは他人から見れば気持ちが悪いことでも、本人は気持ちがいいのかもしれない。
 快には引力のようなものあり、そちらへ行きやすい。楽とかもそうだ。
 しかし、しんどいこと、不快なことでも、そこを通らなければ気持ちのいいところへは出られないとなると、これは不快なことでもやるだろう。快に繋がっているのなら。
 だから快という餌があるので、やる。この方がやりやすい。同じ嫌なことを嫌々ながらやるよりも。
 また快というのは欲の一つ。一つだから、欲にはもっと色々とある。
 快と同じで、欲も大きすぎたり、過剰すぎると、欲張りになり、その末路はよく知られている。
 また、欲張らないことも欲であり、欲を捨てることもまた欲。
 だから、ほどほどのところが良いのだが、これは欲だとは思っていないような状態。先ほどの快不快と同じで、快だとも思っていないし、不快だとも思っていないような状態。そういう意識が浮かんで来ない、気付かない状態。
 その人にとって、バランスが良いのだろう。欲張りではないし、我慢しているわけではない状態。決してそれは中間の状態ではなく、それさえも考えていない状態。
 しかし、欲とか快とかが一寸目立つとき、気が付いたりする。一寸押さえようかとか。
 幸不幸が交互に来たり、快不快も交互に来たりすると、その中間でじっとしている方が良いと思えなくもない、その中間は実は存在しない。
 両端があるので、中間が出来るだけ。これは人では到達できない境地だろう。悟りのようなものだ。
 大笑いし、大泣きする人の方が下手に感情をコントロールするよりも明快でいい。この明快も快なのだが。
 喜怒哀楽。それがないと生きている実感もないだろう。人間は感情の生き物でもあるらしいので。
 
   了

 


2023年1月28日

 

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