小説 川崎サイト

 

個性

 
 やっていることは同じだが、やっている人によって違う。場所によって違うこともあるが、大差はない。
 植田がやると、他の人がやるのとかかなり違ってくる。ただ、それが植田がやっているということが分かっている場合。
 だから、植田をよく知っていないと、誰がやっても同じのパターンになる。やっていることは同じで、多少の違いはあるが、これも場所と同じで、大差はない。
 やっていることは同じなのに、植田がやると、ひと味もふた味も違う。他の人がやると、同じ味だ。 ただ、その他の人、その人が谷田部だとしよう。その谷田部をよく知っている人なら、他の人とは同じにならない。谷田部がそれをやっているのだというフィルターのようなものがかかる。
 だから誰がやっても同じことなのだが、観察者によって違ってくるという単純なことだろう。
 植田も同じことをやっているのだが、それ以下のことをやると、植田にしては力を出し切っていないとか、出し惜しみしているとか、勢いがないとか、後退したか、などとなる。
 逆に思い切ったことをすると、そのレベルが低くても、よくやっているとなる。期待以上のことだと。
 しかし、その人に合ったレベルでやることが多いので、やり足りなかったり、やりすぎたりすることはあまりない。それと、レベルにも上限があり、それ以上のものはない。ただ、極限まで近付けることはできる。
 しかし、これも植田を知っている人でないと、よくあることをやっているとしか見えないだろう。
 つまり、その人にしてはよくやっているとか、あまりよくないとかの評価も、その人を知っていなければ見えてこない違いだ。
 植田もそれを意識している。そのため、知らない人の中でやる方が気楽。だから知っている人が多いと、やりにくいことが多くなる。逆に一寸したことでも評価されることもある。
 知らない人から見れば、何処が良かったのかは分からないだろう。内輪受けだ。
 悪く言えば馴れ合い。しかし植田への評価はまちまちで、あっちが立てば、こっちが立たずとなる。
 しかし、植田の知らない人でも、植田がやると、他の人とは一寸違うことが何となく分かる。
 やっていることは同じ。しかし、一寸違う。植田はこれだけでいいのではないかと思っている。それを最初から持っているようなもので、それを個性というのだろう。
 しかし、その個性、伸びたりしないようだし、弄れるものではないらしい。
 
   了


2023年2月5日

 

小説 川崎サイト