小説 川崎サイト

 

幽命峡の仙人

 

 幽命峡には仙人が多い。仙人になろうとしている人々で、行者のようなもの。幽命峡は一寸した仙境。奇岩が多く、岩と岩の間から大木が生えていたり、中には岩を股火鉢のように囲え混んで、まるで岩の上に木が生えているようなもの。当然根は岩を囲い込みながら、下へ伸び、地面に達しているが。
 そういう妙な景色が見られる場所で、仙人の修行にはいい場所だ。座れそうな岩場もあるが、流石に岩や石の上に座る者はいない。痛いのだ。木の方が頑張っているほど。
 ここに来る人はそれなりの年寄りではなく、若い人も多い。世を捨て、ここに来ているのだ。
 幽命峡の入口あたりにある山寺が世話をしている。しかし、数が多いと米が足りない。寺だけでは賄えないので、周辺の農家などが持ち寄ってくれる。
 米の供え物。これは実用性が高い。当然野菜類も持ってきてくれる。そう言うことをすると、気持ちがいいのだろう。
 世捨て人の腹を満たすだけのことだが、餓鬼供養だと思えばいい。確かに仙人になろうなど言う人はろくな人がいなかったようだ。
 世間から逃れたい。世間で挫折し、逃げ込む場所。そういうのがあるだけまし。ただ、あまりいい人達ではない。また仙人に達したという人は出ていない。何を根拠に仙人と言えるのかが曖昧だが。
 また、幽命峡での修行が苦痛で、これなら俗界の方がましだと戻る者も多い。
 仙人の修行と言っても座っていることが多い。これで世俗の欲を捨て、身が軽くなるはずだが、捨てきれるものではない。捨てたとしても、今度は仙人になろうという欲が生まれる。
 欲を捨てる欲だ。このパターンはよくあるのだが、本人は気付かない。どちらにしても苦行。俗世も苦行なら仙境も苦行。どうせ苦しいのなら俗世の方がサボれる。たまには休める。
 幽命峡で長く残っている行者の殆どは働かなくても飯が食えるので、極楽だと思っている連中。あまり座らないで、山野を探索している。散歩だ。
 汗だくで山野を駆け回るわけではなく、自然観察のようなもの。これは野山に入ると、色々と変化があり、飽きないものだ。
 本気で修行しているわけではないので、仙人にはなれない。だが、何となく分かっている。仙人など本当はいないことを薄々知っているため、無理をしない。やってもやらなくても、同じようなもの。
 その中の一人がかなりの年寄りで、いつの間にか仙人らしい風貌になっていた。空を飛べるわけでもなく、仙術が使えるわけでもない。
 この人が一番仙人に近いのだが、本人は仙人になろうという初期の願いなどは持っていない。山野の逍遙人。その様が絵になっているようだ。
 
   了


 
 
 


2023年8月22日

 

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