小説 川崎サイト

 

上善の楽しさ

 

「一寸した楽しみは欲しいのですがね。それもいけませんか」
 お盆で善兵衛の家に来ていた坊さんに聞く。
 坊さんはお経だけ唱え、さっさと次の家へ行きたいところ。それでもお勤めが終わると茶が出る。暑い盛りなので、喉が渇くので、これは飲む。ただ、この時期のお茶なので、それほど熱くはなく、冷たくない程度。そしてお茶のお盆と一緒にお布施。これを直接出さないで、茶菓子のように添えてある。
 坊さんはお茶を飲む前にサッとお布施を仕舞う。軽く頭を下げて。
 この動作が素早い。相撲取りが懸賞を行司から受け取るような仰々しさはなく、さっと仕舞う。
 そのお茶を飲んでいるとき、楽しさがどうのと、急に言い出される。善兵衛という人、何か気になることがあるのだろうか。坊さんは経を上げただけで、何も喋っていない。だから何も問うていない。
 これは善兵衛が元々持っていた疑問だろう。それを語り出した。
 苦があるから楽があり、楽があるから苦があるという論法。だから苦を減らせば楽も減り、楽を減らせば苦も減る。
 この坊さん、そんなことは一度も言っていない。善兵衛が聞きかじったこと。
 善兵衛は道楽者ではないが、一寸した楽しみを持っている。それを少し減らせば、苦も減るかもしれないが、苦が減れば、さらに楽しさも減るような気がする。
 だから苦しいことが増えてもいいから楽しいことはやめられない。決してそれは派手なことをしているわけではなく、一寸した楽しみ事。誰にも迷惑を掛けていないし、金銭的にも浪費とまではいかないほど。それぐらいは許されるだろうという程度。
 坊さんは答え方が分からないので、上善の楽しみとかを言い出した。より上質な楽しみを。
 しかし、善兵衛のやっている楽しみは下世話なことで、上善ではない。それで、どんな楽しみなのですかと聞く。
 坊さんにも分からない。楽しくも苦しくもないようなものだろう。
 この坊さん、もっと上手く説明できればいいのだが、思い当たることがないのだ。それにそんな境地に入った人など知らない。
 この坊さんも実は密かな楽しみがあり、これは流石に口には出せないが、それを失いたくない。だから、善兵衛と同じなのだ。
 それで、説明の途中で、説得力がなくなり「まあ、無理に落とすことはないでしょう」と括ってしまった。つまり欲のようなものを無理に落とさずともいいという程度。
「上善の楽しみとは何でしょうねえ」
 坊さんにも分からないが、それはもう楽しいと言うことではないのかもしれない。流石にそんな頼りのない楽しみなど、楽しみではなくなるだろう。
 お盆で忙しいのに長居してしまったのか、それに気が付き、坊さんはさっさと出ていった。残された善兵衛は何故か安堵した。
 
   了



 
 
 


2023年8月25日

 

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